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2022.11/27 [Sun]
鶴岡八幡宮の大銀杏と実朝暗殺
1219年1月27日、三代将軍・源実朝は右大臣拝賀の式の直後、鶴岡八幡宮の階段脇の大銀杏の陰に隠れていた二代将軍・源頼家の遺児・公暁によって殺害されました。

そのことから、この木は「隠れ銀杏」とも呼ばれています。

源実朝
というのは、物語の話で、実際は階段を上った辺りで斬られたそうです。

建保7年(1219)、前年に朝廷から右大臣に任官された実朝は、昇進を神に報告するため、鶴岡八幡宮に参詣しました。
深く雪の積もった夜、拝賀を終え、退出しようとしたところを「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁によって殺害されました。

(祖母の北条政子から鶴岡八幡宮の別当に任じられる公暁[鎌倉三代記」より)
同行していた源仲章もまた同時に斬り殺されています。
『愚管抄』によると、これは北条義時と誤ったものだといいます。
『吾妻鏡』によれば、この日義時は八幡宮の楼門に至ると体調の不良を訴え、太刀持ちを仲章に譲ったとあり、一方で『愚管抄』によれば、義時は実朝の命により太刀を捧げて中門に留まっており、儀式の行われた本宮には同行しなかったとあります。
公暁は、実朝の首を持って雪の下北谷の後見者・備中阿闍梨宅に戻り、食事の間も実朝の首を離さなかったといいます。
そして、三浦義村に「今こそ我は東国の大将軍である。その準備をせよ」と使いを出したのですが、義村は「迎えの使者を送ります」と偽り、義時にこの事を告げたところ、公暁を誅殺すべく評議をし、義村は公暁を討つべく長尾定景を差し向けました。

(三浦義村と公暁の乳母の義村の妻)
公暁は義村の迎えが来ないので、雪の中を義村宅に向かう途中で討手に遭遇、義村宅の板塀まで辿り着き、塀を乗り越えようとしたところを討ち取られたといいます。享年20。
2010年の3月10日(水)の明け方、樹齢1千年余とされるこの大銀杏が 強風で倒れてしまい、現在再生中です。


この画像は元気な時のものです。

歴史の舞台を見守ってきたこの大木、何とかして蘇って欲しいものですね。
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そのことから、この木は「隠れ銀杏」とも呼ばれています。

源実朝
というのは、物語の話で、実際は階段を上った辺りで斬られたそうです。

建保7年(1219)、前年に朝廷から右大臣に任官された実朝は、昇進を神に報告するため、鶴岡八幡宮に参詣しました。
深く雪の積もった夜、拝賀を終え、退出しようとしたところを「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁によって殺害されました。

(祖母の北条政子から鶴岡八幡宮の別当に任じられる公暁[鎌倉三代記」より)
同行していた源仲章もまた同時に斬り殺されています。
『愚管抄』によると、これは北条義時と誤ったものだといいます。
『吾妻鏡』によれば、この日義時は八幡宮の楼門に至ると体調の不良を訴え、太刀持ちを仲章に譲ったとあり、一方で『愚管抄』によれば、義時は実朝の命により太刀を捧げて中門に留まっており、儀式の行われた本宮には同行しなかったとあります。
公暁は、実朝の首を持って雪の下北谷の後見者・備中阿闍梨宅に戻り、食事の間も実朝の首を離さなかったといいます。
そして、三浦義村に「今こそ我は東国の大将軍である。その準備をせよ」と使いを出したのですが、義村は「迎えの使者を送ります」と偽り、義時にこの事を告げたところ、公暁を誅殺すべく評議をし、義村は公暁を討つべく長尾定景を差し向けました。

(三浦義村と公暁の乳母の義村の妻)
公暁は義村の迎えが来ないので、雪の中を義村宅に向かう途中で討手に遭遇、義村宅の板塀まで辿り着き、塀を乗り越えようとしたところを討ち取られたといいます。享年20。
2010年の3月10日(水)の明け方、樹齢1千年余とされるこの大銀杏が 強風で倒れてしまい、現在再生中です。


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- [鎌倉殿の13人:源実朝(鎌倉殿の13人)]
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