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2022.06/14 [Tue]
大姫ゆかりの岩船地蔵堂
岩船地蔵堂とは、鎌倉・扇ヶ谷から亀ヶ谷坂の分岐点に建つ小さなお堂で、ここには源頼朝と北条政子との長女・大姫の守り本尊とされる木造地蔵菩薩立像が安置されています。

大姫は許婚の木曽義仲の息子・義高を政略のために殺され、失意のあまり病にかかってしまい、若くしてこの世を去りました。

武者鑑一名人相合南伝二 大姫君(一猛斎芳虎画、国立国会図書館蔵)
治承2年(1178年)、 頼朝が伊豆の流人だった頃に、夫婦の間の最初の子として誕生。
大姫というのは長女を意味する通称であり、本名は一幡とする説があるが不明。
寿永2年(1183年)春、頼朝と対立していた源義仲は、長男で当時11歳の源義高を人質として鎌倉に送り、当時6歳の大姫の婿とする事で頼朝と和議を結んだ(なお、義高と大姫は又従兄妹にあたる)。しかし頼朝と義仲の関係は破局し、翌年の寿永3年(1184年)正月、義仲は頼朝の送った軍によって都の郊外で敗死する。
同年(改元して元暦元年)4月21日(6月1日)、頼朝は将来の禍根を断つべく義高の殺害を決める。それを漏れ聞いた侍女たちから知らせを受けた大姫は、明け方に義高を女房姿にさせ、侍女たちが取り囲んで邸内から出し、ひづめに綿を巻いた馬を用意して鎌倉を脱出させる。義高と同年の側近であった海野幸氏を身代わりとして、義高の寝床から髻を出し、義高が好んで幸氏といつも双六勝負していた場所で双六を打ち、その間殿中の人々はいつも通り義高が座っているように思っていたが、夜になって事が露見する。
頼朝は激怒して幸氏を召し捕り、堀親家以下軍を各所に派遣して義高を討ち取るように命じる。周章した大姫は魂を打ち消すほど打ちしおれてしまう。4月26日(6月6日)、親家の郎党である藤内光澄が鎌倉に戻り、入間河原で義高を討ち取った旨を報告する。この事は内密にされていたが、大姫の耳に入り、悲嘆のあまり水も喉を通らなくなるほどだった。6月27日(8月5日)、政子は大姫が病床に伏し、日を追って憔悴していくのは義高を討ったためだと憤り、ひとえに討ち取った男の配慮が足りなかったせいだと頼朝に強く迫り、藤内光澄は晒し首にされた。
7歳であった大姫の心は深く傷付き、その後十余年を経ても義高への思いに囚われては床に伏す日々が続く。義高のための追善供養や読経、各寺院への祈祷などあらゆる手が尽くされたが効果はなかった。
だが、これらの逸話を記した『吾妻鏡』の記述には文飾が施されていると思われ、どこまでが事実でどこからが虚構なのかの判別は付け難い。(Wikipediaより)
岩船地蔵の名の由来は、地蔵の体内に、船形の光背を備えた石造りの地蔵尊が納められていることによるものとされています。

亀ヶ谷辻に建つこの堂は、古くから頼朝の娘大姫を、供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。
木造地蔵尊の胎内の銘札にも「大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝御息女之守本尊也」との記述があり、続けて元禄三年に堂を再建し、あらたに本像を造立した旨が記されています。
「北条九代記」にも、許嫁との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺送りしたことが記されています。
このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に、今なお、ほのかに虹をさす木造地蔵尊を前立像として安置し、供養いたしました。
心ある方は、どうぞご供養の合掌をなさって、お通り下さい。
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大姫は許婚の木曽義仲の息子・義高を政略のために殺され、失意のあまり病にかかってしまい、若くしてこの世を去りました。

武者鑑一名人相合南伝二 大姫君(一猛斎芳虎画、国立国会図書館蔵)
治承2年(1178年)、 頼朝が伊豆の流人だった頃に、夫婦の間の最初の子として誕生。
大姫というのは長女を意味する通称であり、本名は一幡とする説があるが不明。
寿永2年(1183年)春、頼朝と対立していた源義仲は、長男で当時11歳の源義高を人質として鎌倉に送り、当時6歳の大姫の婿とする事で頼朝と和議を結んだ(なお、義高と大姫は又従兄妹にあたる)。しかし頼朝と義仲の関係は破局し、翌年の寿永3年(1184年)正月、義仲は頼朝の送った軍によって都の郊外で敗死する。
同年(改元して元暦元年)4月21日(6月1日)、頼朝は将来の禍根を断つべく義高の殺害を決める。それを漏れ聞いた侍女たちから知らせを受けた大姫は、明け方に義高を女房姿にさせ、侍女たちが取り囲んで邸内から出し、ひづめに綿を巻いた馬を用意して鎌倉を脱出させる。義高と同年の側近であった海野幸氏を身代わりとして、義高の寝床から髻を出し、義高が好んで幸氏といつも双六勝負していた場所で双六を打ち、その間殿中の人々はいつも通り義高が座っているように思っていたが、夜になって事が露見する。
頼朝は激怒して幸氏を召し捕り、堀親家以下軍を各所に派遣して義高を討ち取るように命じる。周章した大姫は魂を打ち消すほど打ちしおれてしまう。4月26日(6月6日)、親家の郎党である藤内光澄が鎌倉に戻り、入間河原で義高を討ち取った旨を報告する。この事は内密にされていたが、大姫の耳に入り、悲嘆のあまり水も喉を通らなくなるほどだった。6月27日(8月5日)、政子は大姫が病床に伏し、日を追って憔悴していくのは義高を討ったためだと憤り、ひとえに討ち取った男の配慮が足りなかったせいだと頼朝に強く迫り、藤内光澄は晒し首にされた。
7歳であった大姫の心は深く傷付き、その後十余年を経ても義高への思いに囚われては床に伏す日々が続く。義高のための追善供養や読経、各寺院への祈祷などあらゆる手が尽くされたが効果はなかった。
だが、これらの逸話を記した『吾妻鏡』の記述には文飾が施されていると思われ、どこまでが事実でどこからが虚構なのかの判別は付け難い。(Wikipediaより)
岩船地蔵の名の由来は、地蔵の体内に、船形の光背を備えた石造りの地蔵尊が納められていることによるものとされています。

亀ヶ谷辻に建つこの堂は、古くから頼朝の娘大姫を、供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。
木造地蔵尊の胎内の銘札にも「大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝御息女之守本尊也」との記述があり、続けて元禄三年に堂を再建し、あらたに本像を造立した旨が記されています。
「北条九代記」にも、許嫁との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺送りしたことが記されています。
このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に、今なお、ほのかに虹をさす木造地蔵尊を前立像として安置し、供養いたしました。
心ある方は、どうぞご供養の合掌をなさって、お通り下さい。
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