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源頼朝の奥州征伐(4)井草八幡宮

東京都杉並区善福寺に鎮座する井草八幡宮

井草八幡宮1

平安時代末期は春日神を祀っていましたが、源頼朝奥州討伐の折、八幡神を合祀して戦勝を祈願して以来八幡宮を合祀し、後年春日社を末社として奉斎するようになりました。

井草八幡宮2

文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏を攻むるに当たり、戦勝祈願をした伝えられています。

江戸幕府三代将軍の徳川家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営し、 慶安2年に朱印領六石を寄進。以降幕末まで歴代将軍から朱印地の寄進がありました。

楼門
井草八幡宮3

井草八幡宮は、南に善福寺川の清流を望み、今なお「武蔵野」の面影残る秀麗の地に鎮座し古地名を冠して遅野井八幡宮とも称せられました。
善福寺川の源泉である善福寺池が豊富な湧水であったことから、この付近にはかなり古くから人々が生活していたと考えられ、境内地及びその周辺地域からも縄文時代の住居跡や土器等が発見されています。
 
 当宮は創建当時、春日社をお祀りしていましたが、源頼朝公が奥州藤原泰衡征伐の際に戦勝祈願をして立ち寄ったと伝わっており、それ以来八幡宮を奉斎するようになりました。奥州平定後、源頼朝公が報賽のため手植えしたと言われる松が当宮社殿前に雌雄二本植えられておりましたが、雌松(赤松)は明治初年に枯れ、都の天然記念物であった雄松(黒松)は昭和四十七年に強風で大枝が折れ、翌年には残念ながら枯れてしまいました。(現在は、二代目の松が植えられています)
 源氏が八幡神を氏神として尊崇したことから武神の性格が強く、室町時代には石神井城の豊島氏征伐のため、扇ケ谷上杉家の執事太田道灌が戦勝祈願をしたとも伝えられています。江戸時代には、三代将軍徳川家光による六石余の朱印領 (将軍の朱印状によって領有を認められた土地)の給付、また寺社奉行井上正利に社殿造営をさせるなど、篤く崇敬されていました。
 また、旧上井草・旧下井草は、正保二年(一六四五)以降、奥高家である今川氏の領地となり、とりわけ今川氏堯によって寛文四年(一六六四)に本殿の改築等なされ、寄進された一間四方の本殿は杉並区最古の木造建築物となり、現在も本殿として覆殿に納められています。
 明治以降も氏子崇敬者によって社殿の改修、境内の整備が行われ、都内でも有数の広さ(約一万坪)を誇り、現在は神社本庁別表神社に指定されています。
(井草八幡宮HPより)

井草八幡宮4

井草八幡宮 由緒


主祭神 八幡大神

 当社は、古代より人々の生活の場であった遅野井(上井草村)の地に鎮まり、付近から縄文時代の 住居跡や多くの土器・石器が発掘されてます。中でも文華殿(宝物殿)に収蔵する顔面把手付釣手 形土器(重要文化財)は火を灯した痕跡があり、何らかの祭祀儀礼に用いたと想像され、この辺り が神聖な地であったことが窺えます。

 鎌倉時代に入り、文治五年(1189)に源頼朝公が奥州征伐の途次、戦勝を祈願しました。その 願いが叶って頼朝公自ら松樹を手植えしましたが、現在は枯れてしまい、その末流に当たる松が境 内で育っています。

 室町時代には太田道灌が石神井城の豪族豊島氏を攻めるに際して、当社に戦勝を祈願したと伝えら れています。

 江戸時代になると三代将軍家光より朱印領六石が寄進され、こののち歴代将軍何れも朱印地を寄進 して萬延元年にまで及んでいます。この地域の地頭であった今川氏も当社を深く崇敬し調度品など を奉納し興隆に努め、寛文四年(1664)に寺社奉行の命により改築した本殿は、現在杉並区内 で最も古い木造建築物です。

 明治以降も氏子崇敬者の助力により境内を整備拡充し、社宝や郷土の民俗資料の保存のため文華殿、 民俗資料館を設置し、教化活動の一環として幼稚園教育を行っています。

 昭和41年には旧官国幣社に準ずる神社本庁別表神社に加列され今日に至っています。(駒札より)


井草八幡宮5

井草八幡宮6

頼朝が奥州征伐の際に、こちらに立ち寄り戦勝祈願し、2本の松を手植し奉献したと伝えられています。

現在の松は2代目で、以前の松は1本は明治初年に、もう1本は昭和48年に枯れてしまい、衝立として回廊内に保管されているそうです。

井草八幡宮7


 頼朝公御手植の松 

 鎌倉晴代初頭の文治5年(1189年)、源頼朝公は奥州藤原氏の征伐に向かう途次、当神社に戦勝祈願に立ち寄りました。その後、無事奥州平定に成功した頼朝公は、その報賽として建久4年(1193年)、社頭に雌雄二本の松を自らの手で植え奉献されました。
 雌松(赤松)は明治時代に枯れてしまいましたが、雄松(黒松)は約八百年の間、井草地域の標徴としで仰ぎ見られていました。東京都の天然記念物にも指定され、高さ約40米・周回約5米、大人3人でやっと抱えられる程の威容を誇っていました。しかしながら、昭和47年1月、強風によってニ股に分かれた大幹の一方が折れ落ちて以来、急速に衰え終には枯れてしまいました。現在、神門内側にある衝立は、その根を輪切りにしたものです。現在の松はその大松の末流にあたり、ニ代目の御手植の松として大事に育てられています。



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Comment

NoTitle 

「源頼朝の奥州征伐(4)井草八幡宮」のの素晴らしい記事です
  • posted by Tsuguo 四方 
  • URL 
  • 2022.06/01 05:55分 
  • [Edit]

NoTitle 

こんにちは。
ここはまた知らないところですね。
恥ずかしながらの八幡様。さっきから記事見て、
いろいろ勉強してるところです。
こうして詳しくいろいろ教えてもらうと。
なんか得し気分になりました・・。🤩

  • posted by マーチャン 
  • URL 
  • 2022.06/01 10:25分 
  • [Edit]

NoTitle 

八幡様は戦いの神様ですからねぇ。

我が家の近くには応神天皇を祀った
誉田八幡宮があるんですよ。
こここそが最古の八幡宮ですね。

応援ぽち
  • posted by よっちん 
  • URL 
  • 2022.06/01 20:29分 
  • [Edit]

こんばんは 

こんばんは。
井草ですか。
この辺りも仕事で良く回った場所です。
以前は農地も多かったのですけどね。
今は住宅で埋まっていますよね。
この八幡宮は知りませんでしたね。
  • posted by 自転車親父 
  • URL 
  • 2022.06/01 22:02分 
  • [Edit]

NoTitle 

各時代の将にも寄進され、守られてきたのですね。
応援ぽち2.
  • posted by みかん農家 
  • URL 
  • 2022.06/01 22:45分 
  • [Edit]

皆様へ 

こんばんは!
今日もコメントありがとうございましたm(__)m

この井草八幡宮も昔まわったところなのですが、奥州征伐ゆかりの地としてまとめました。
誉田八幡宮は、二度ほど参拝したことがあります。
こうして考えて見ると、全国の八幡宮を結構まわったことになります。
  • posted by しずか 
  • URL 
  • 2022.06/01 22:58分 
  • [Edit]

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