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六波羅探題府跡と六波羅蜜寺

京都東山区の六波羅蜜寺には、承久の乱後に、鎌倉幕府が設けた「六波羅探題府跡」の碑があります。

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それまでの京都守護を改組し、京都六波羅の北と南に設置した出先機関で、初代探題は、北条時房北条泰時

承久の乱の戦後処理として、後鳥羽上皇方に加担した公家・武士などの所領が没収され、御家人に恩賞として再分配されましたが、それまで幕府の支配下になかった荘園であったため、これらの荘園にも地頭が置かれることになりました。

また、幕府側は朝廷方や西国の御家人を監視するために、六波羅にあった旧平清盛邸の跡地を拠点にし、北条泰時、北条時房が六波羅の北と南に駐留することになりました。

これが六波羅探題の始まりです。


泰時は、1224年(元仁1)父・北条義時の死により、鎌倉に帰って執権に就任。この時、継母伊賀氏は実子の政村を執権にたてようとしましたが、泰時は北条政子の助力を得て阻止。

翌年、政子と大江広元が相次いで没すると、泰時は時房を連署に迎え、さらに評定衆を設置、
1232年(貞永1)には御成敗式目を制定し、執権政治を確立。

1242年(仁治3)病のため出家し、観阿(かんあ)と称したが、6月5日没した。



一方、時房は、北条義時急死後、鎌倉に帰り、連署となって執権・泰時のよき協力者として幕政を指導した。

延応(えんおう)2年正月24日死去。

容姿に優れた人物であり、所作も良い人物であった。

源頼家、源実朝の和歌、蹴鞠の相手を務め、また後鳥羽上皇の前でも蹴鞠を披露し、それを上皇より気に入られて出仕するよう命じられた。
京都での活動、経験は、後に波羅探題として手腕を発揮する際に生かされた。

しかし、こんなエピソードもあるそうです。

泰時とは、良きパートナーであるとともに、良きライバルでもあった。

互いに協調に努めながらも必ずしも確執が無かった訳では無いと指摘している。
嘉禄元年(1225年)12月20日に泰時主導で宇都宮辻子御所への移転が行われ、翌日の評定始の席で泰時が今後はすべて賞罰は泰時自身で決定する旨を宣言すると、23日に時房は突然病気になって29日に行われた藤原頼経の元服を欠席している。
これは単なる病気ではなく、時房の泰時への反発の意味を含んでいたとされる。
また、時房の没後、泰時が六波羅探題を務める時房の長男・時盛(後の佐介家)を排して、自分の娘婿である四男・朝直(後の大仏家)を重用することで、時房流を分裂にさせて、泰時流(後の得宗家)の安定化を図っている[10]。

ある時泰時が病に罹患して重篤化したが、時房は同僚達を集めて酒宴を催していた。
「泰時が危ういのに何故酒宴などできるのか」と問い質されたところ、時房は「御家人を統率する泰時が生きているからこそ、こうして酒宴に興じられる、
泰時が身罷っては、おちおち酒宴もできなくなってしまう」と語った。(Wikipediaより)


六波羅蜜寺は、空也上人が天暦5年(951年)に造立した十一面観音を本尊とする道場に由来し、西国第17番の札所です。

当初は西光寺と称しました。

空也の死後、977年に比叡山の僧・中信が中興して天台別院とし、六波羅蜜寺と改称しました。

平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、平清盛重盛に至り、この付近に清盛ら平家一門の屋敷が営まれました。

江戸時代までは大伽藍を連ねていましたが、明治の廃仏毀釈により、大幅に寺域を縮小。

現在の主な建物は本堂と弁財天堂、宝物館のみです。

本堂
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弁財天堂

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清盛塚と呼ばれる清盛の供養塔があります。

以前は囲いがありませんでしたが、大河ドラマ「平清盛」に合わせて作ったようで、ずいぶん立派になりました!

清盛塚
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清盛塚の隣には阿古屋塚があります。
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阿古屋塚とは、阿古屋の菩提を弔うために鎌倉時代に建立された供養塔で、清盛の供養塔の右側に建っています。
阿古屋とは、平家の侍・悪七兵衛星景清の恋人の遊女であり、歌舞伎の「出生景清」「壇ノ浦兜戦記」の場面「阿古屋の琴責め」に描かれています。

阿古屋の琴責め

平家の落ち武者、悪七兵衛景清の行方を探すために思い人で五条坂に住む白拍子阿古屋を捕らえ、代官畠山重忠は彼女が景清の所在を心に秘めていることを知っていましたが、弾かせた三味線、琴の調べに一点の乱れのないことに感動し彼女を釈放したというストーリーです。

阿古屋塚と呼ばれているこの石塔は、台が古墳の石棺の蓋石で、上は鎌倉時代の宝塔。葬送地の鳥辺野の入り口に位置するこのエリアで、下火(あこ)という点火作法が行われていたことから、下火(あこ)⇒阿古屋(あこや)になったのではないかという説があります。それがいつの間にか歌舞伎の遊女・阿古屋に結び付けられたのかもしれません。

また、宝物館には、六体の阿弥陀仏を口から吹き出している姿の空也上人像をはじめ、定朝作の地蔵菩薩立像、運慶作の地蔵菩薩像、平清盛坐像などの重文の仏像群があります。

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さて、この六波羅蜜寺がある町の名前は轆轤町(ろくろちょう)と言います。

「六波羅」という名称は仏教の教義「六波羅蜜」という語に由来しますが、この地を古来「六原」と称したことに由来するとも考えられています。

近くには六波羅蜜寺の近くには、西福寺があり、その角は六道の辻と呼ばれ、この世とあの世の堺い目とされていました。ここから東はかつて鳥辺野という葬送地で、火葬や土葬もせず、野原に死体を投げるだけで、鴨川の河原は死体で溢れている時代もあったそうです。
この六道に辻辺りも死体を投げ捨てていくことがあったとか。
そんな歴史から、轆轤の由来は、髑髏(どくろ)という説があるそうです。


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Comment

NoTitle 

こんにちは。
京都の六波羅蜜寺がそれにしてもというくらい、
大事なところだと記事拝見して思ったほどで、
いままで恥ずかしいことにあんまり知らずして、
お参りに出向いたとはそれはおくがましい話でした。
きょうもありがとうござすました・・。🤩
  • posted by マーチャン 
  • URL 
  • 2022.12/27 10:42分 
  • [Edit]

こんばんは 

こんばんは。
六波羅蜜寺は行ったことがあります。
意外と小さいのでびっくりしました。
もちろん平清盛の事を思いながら訪ねましたね。
清盛全盛の頃を思いながらです。

NoTitle 

六波羅探題がここにあったのですね。
それぞれ政治の実権をしっかりとつないでいったのですね。
応援ぽち3.
  • posted by みかん農家 
  • URL 
  • 2022.12/27 22:16分 
  • [Edit]

皆様へ 

こんばんは!
今日もコメントありがとうございました。

六波羅蜜寺は、皆さんにも馴染みのある自院のようですね。
私も平家ゆかりの寺で訪ねたのが最初でしたが、今年のドラマで、六波羅探題にもゆかりのあるところだと思い出しました。
ここにも歴史の繋がりを感じます。
  • posted by しずか 
  • URL 
  • 2022.12/27 22:38分 
  • [Edit]

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