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2022.12/10 [Sat]
源頼茂の乱
承久元年(1219年)7月13日、都を揺るがす源頼茂の乱が勃発!
源頼茂(みなもとのよりもち)は、源頼政の孫、源頼兼の子であり、大内裏中の内裏の警固を職務とする大内守護を職務としていました。
源頼政

源実朝の家司となるとともに、左大将・右大臣拝賀の際は鎌倉に赴いており、実朝と親しい武士でした。
しかし、源実朝暗殺後、実朝の後継者・鎌倉幕府第4代将軍として三寅になることが決まり、頼茂は謀反の心を引き起こしたといいまますが、真偽不明。
これにより、在京武士たちは、頼茂追悼の院宣を発給してもらい、承久元年(1219年)7月13日、頼茂の在所であった昭陽舎を襲撃。

※昭陽舎(しょうようしゃ)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。女御などが居住した。また、円融天皇が東宮時代に居住したとの記録が残り(『日本紀略』)、その後東宮敦良親王(のちの後朱雀天皇)の頃東宮御所として定着した。
庭に梨が植えられていたところから、梨壺(なしつぼ)ともいう。内裏の北東に位置し、南北二棟がある。(北は昭陽北舎) 麗景殿の東、淑景舎(桐壺)の南。
頼茂は、承明門のみを開き、抵抗しますが、軍勢を撃退できず、仁寿殿に篭り火を掛け自害、子の頼氏は捕縛されました。
この合戦による火災で仁寿殿・宜陽殿・校書殿などが焼失し、仁寿殿の観音像や内侍所の神鏡など複数の貴重な宝物が焼失してしまいました。
何よりも大切にしていた王権の象徴を失い、人一倍王権にこだわっていた後鳥羽上皇は、ショックで約一ヶ月も寝込んだといいます。
後鳥羽上皇

討伐の理由は『愚管抄』『保暦間記』では頼茂が将軍職に就くことを企てたためとされており、『吾妻鏡』では後鳥羽上皇の意に背いたためと記されている。
後鳥羽上皇が突如頼茂を攻め滅ぼした明確な理由はわかっていないが、鎌倉と通じる頼茂が京方の倒幕計画を察知した為ではないかとする説もある。
また『愚管抄』には頼茂と藤原忠綱の間に怪しい共謀があったとし、忠綱は実朝暗殺後に九条基家を次期将軍にしようと画策して後鳥羽に解官・所領没収されており、
その赦免を願っていたのが卿二位兼子だったことから、卿二位の推す頼仁親王の将軍就任が後鳥羽によって拒絶され、卿二位の政敵西園寺公経の外孫三寅が
有力な将軍候補となったため、卿二位が何らかの妨害を企み発覚したのが頼茂謀反の真相で、
後鳥羽は在京武士の訴えで頼茂捕縛を試みたが召喚に応じず討伐に至ったとする説もある(Wikipediaより)
以前、平安宮内裏跡をまわったことがあります。
平安宮内裏承明門跡の石碑

承明門は、平安宮内裏の内郭の南の正門に当たります。

平安宮 内裏 承明門(じょうめいもん)跡
この付近から北方一帯は、平安宮(大内裏)の天皇の居所である内裏跡にあたり、1984年に当地で行われた発掘調査で、江戸・桃山・平安・奈良の各時代の遺構や遺物が見つかっている。そのうち平安時代の遺構は、敷地南寄りで凝灰岩の切り石及び河原石を並べた幅約80㎝の東西方向の新旧遺構が検出され、内裏正門の建礼門の内側にあった承明門の北側雨落溝跡(あめおちみぞ 雨水の排水溝)と判明した。
この溝を境にして北方は、白砂が敷かれた状態で見つかり、内裏正殿である紫宸殿の前庭は白砂が敷かれていたこともあきらかになった。また、この雨落遺跡北方では、南北一直線上に9世紀中頃から11世紀末までの4箇所の地鎮め遺構が検出され、このうち1基は、11世紀中頃の輪宝(りんぽう)に橛(けつ)が打ち込まれた状態で出土、さらに据え置かれた土師器皿数枚の上に倒れた状態の壺も検出され、輪宝上面などには金粉、銀切板、琥珀片、ガラス玉、ガラス玉、珊瑚片など、儀式の際にまかれた宝物なども見つかっている。この地鎮の遺構は、火災後に再建され天皇の新居入宅の際に行われたもので、天台密教の安鎮法(あんちんほう)による儀式で執り行われたを示し、地鎮め地点の記述や同時に出土した土器の編年から、延久3年(1071)の後三条天皇遷都の時のものと考えられている。
これらの祭祀場所は、承明門の中央、すなわち内裏の中央南北ラインの位置を示しており、内裏を復元する重要な定点となり、また、内裏の変遷や関係書物は、一括して京都市の有形文化財に指定され、雨落遺構も地中の元位置で保存されている。
(案内板より)
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源頼茂(みなもとのよりもち)は、源頼政の孫、源頼兼の子であり、大内裏中の内裏の警固を職務とする大内守護を職務としていました。
源頼政

源実朝の家司となるとともに、左大将・右大臣拝賀の際は鎌倉に赴いており、実朝と親しい武士でした。
しかし、源実朝暗殺後、実朝の後継者・鎌倉幕府第4代将軍として三寅になることが決まり、頼茂は謀反の心を引き起こしたといいまますが、真偽不明。
これにより、在京武士たちは、頼茂追悼の院宣を発給してもらい、承久元年(1219年)7月13日、頼茂の在所であった昭陽舎を襲撃。

※昭陽舎(しょうようしゃ)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。女御などが居住した。また、円融天皇が東宮時代に居住したとの記録が残り(『日本紀略』)、その後東宮敦良親王(のちの後朱雀天皇)の頃東宮御所として定着した。
庭に梨が植えられていたところから、梨壺(なしつぼ)ともいう。内裏の北東に位置し、南北二棟がある。(北は昭陽北舎) 麗景殿の東、淑景舎(桐壺)の南。
頼茂は、承明門のみを開き、抵抗しますが、軍勢を撃退できず、仁寿殿に篭り火を掛け自害、子の頼氏は捕縛されました。
この合戦による火災で仁寿殿・宜陽殿・校書殿などが焼失し、仁寿殿の観音像や内侍所の神鏡など複数の貴重な宝物が焼失してしまいました。
何よりも大切にしていた王権の象徴を失い、人一倍王権にこだわっていた後鳥羽上皇は、ショックで約一ヶ月も寝込んだといいます。
後鳥羽上皇

討伐の理由は『愚管抄』『保暦間記』では頼茂が将軍職に就くことを企てたためとされており、『吾妻鏡』では後鳥羽上皇の意に背いたためと記されている。
後鳥羽上皇が突如頼茂を攻め滅ぼした明確な理由はわかっていないが、鎌倉と通じる頼茂が京方の倒幕計画を察知した為ではないかとする説もある。
また『愚管抄』には頼茂と藤原忠綱の間に怪しい共謀があったとし、忠綱は実朝暗殺後に九条基家を次期将軍にしようと画策して後鳥羽に解官・所領没収されており、
その赦免を願っていたのが卿二位兼子だったことから、卿二位の推す頼仁親王の将軍就任が後鳥羽によって拒絶され、卿二位の政敵西園寺公経の外孫三寅が
有力な将軍候補となったため、卿二位が何らかの妨害を企み発覚したのが頼茂謀反の真相で、
後鳥羽は在京武士の訴えで頼茂捕縛を試みたが召喚に応じず討伐に至ったとする説もある(Wikipediaより)
以前、平安宮内裏跡をまわったことがあります。
平安宮内裏承明門跡の石碑

承明門は、平安宮内裏の内郭の南の正門に当たります。

平安宮 内裏 承明門(じょうめいもん)跡
この付近から北方一帯は、平安宮(大内裏)の天皇の居所である内裏跡にあたり、1984年に当地で行われた発掘調査で、江戸・桃山・平安・奈良の各時代の遺構や遺物が見つかっている。そのうち平安時代の遺構は、敷地南寄りで凝灰岩の切り石及び河原石を並べた幅約80㎝の東西方向の新旧遺構が検出され、内裏正門の建礼門の内側にあった承明門の北側雨落溝跡(あめおちみぞ 雨水の排水溝)と判明した。
この溝を境にして北方は、白砂が敷かれた状態で見つかり、内裏正殿である紫宸殿の前庭は白砂が敷かれていたこともあきらかになった。また、この雨落遺跡北方では、南北一直線上に9世紀中頃から11世紀末までの4箇所の地鎮め遺構が検出され、このうち1基は、11世紀中頃の輪宝(りんぽう)に橛(けつ)が打ち込まれた状態で出土、さらに据え置かれた土師器皿数枚の上に倒れた状態の壺も検出され、輪宝上面などには金粉、銀切板、琥珀片、ガラス玉、ガラス玉、珊瑚片など、儀式の際にまかれた宝物なども見つかっている。この地鎮の遺構は、火災後に再建され天皇の新居入宅の際に行われたもので、天台密教の安鎮法(あんちんほう)による儀式で執り行われたを示し、地鎮め地点の記述や同時に出土した土器の編年から、延久3年(1071)の後三条天皇遷都の時のものと考えられている。
これらの祭祀場所は、承明門の中央、すなわち内裏の中央南北ラインの位置を示しており、内裏を復元する重要な定点となり、また、内裏の変遷や関係書物は、一括して京都市の有形文化財に指定され、雨落遺構も地中の元位置で保存されている。
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NoTitle
なにしろ歴史にくわしくはなくて、
せいぜいしずかさんのここでの記事で、
勉強しながらそれも日々楽しんでて、
それがまた生活のひとつの糧でしょうから、
ただありがとうと今日もいうだけです・・・。🤩