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2023.01/16 [Mon]
牛久保史跡巡り(1)大聖寺 今川義元の胴塚
2016年7月、JR飯田線牛久保駅で下車し、牛久保史跡巡りをしました。

牛久保といえば、山本勘助ゆかりの地でもあります。

牛久保駅から徒歩で10分ほどのところに大聖寺というお寺があります。



今川義元公墓所
戦国時代の駿河・遠江・三河の領主今川義元は永禄3年(1560)5月19日、尾張桶狭間の合戦で織田信長の奇襲にあって討死しました。
その時、首を取られた義元の胴体を家臣が背負って当地まで逃れ、この寺に葬って、とりあえず石の手水鉢をのせ墓石の代わりにしました。それが、「義元の胴塚」と言われる由来です。
嫡子上総介は永禄6年(1563)父義元の3回忌をこの寺で営み、父の位牌所として寺領を安堵しました。
その後、墓は整備され、毎年義元の命日には、地元の人々により慰霊祭が行われています。
豊川市教育委員会
この大聖寺の境内に、石柵に囲まれた今川義元の胴塚があります。


今川義元は永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで、織田信長の奇襲を受けて敗死しました。
家臣達が首のない義元の遺体を背負って駿河へ帰る途中、遺体の腐敗がひどくなり、これ以上進むのは無理だと判断し、家臣達は、ひとまずこの地に葬り、手水鉢を置いて墓じるしとしました。
嫡子の今川氏真は、父の三周忌を大聖寺で営み、位牌所として寺領の支配、諸役免除を認めた安堵状を与えました。
義元の墓の左手には、一色城の城主であった一色刑部の墓 があります。
一色時家(いっしき ときいえ)は、室町時代の武将。鎌倉公方足利持氏の家臣。
喜連川判鑑に、「一色刑部小輔 大草子ニ時家」と記載されているが、鎌倉大草紙には、「一色刑部大輔持家」と記載されている。
鎌倉公方・足利持氏に仕える(持氏の母は一色氏とする説があり、事実ならば外戚にあたる)。応永33年(1426年)、甲斐国の国人・武田信長征討に派遣され、郡内の猿橋(山梨県大月市猿橋)において交戦する。また、応永33年頃より永享の乱による持氏の滅亡まで、一色持家が相模国の守護に在職していたことが判明している。ただし、これは足利持氏が同国を事実上の御料国にするために独断で任命したもので、最終的な補任権を持つ室町幕府は持家を守護として承認したとする史料は発見されておらず、持家の就任を認めなかった室町幕府と鎌倉公方の対立を深刻化させる一要因になったとみられる。
永享10年(1438年)の永享の乱では、伯父の一色直兼と共に持氏方の大将として戦うが敗北、同族の一色氏を頼り三河国に落ち延びた。
翌11年(1439年)、三河宝飯郡宮島郷(愛知県豊川市牛久保町付近)に一色城を築城し、ここを根拠地として勢力の拡大を図る。
翌12年(1440年)5月の征夷大将軍足利義教による一色義貫誅殺は、三河守護でありながら、持氏方残党の時家を匿ったため起こったといえる。
応仁元年(1467年)、応仁の乱が勃発すると、同族の一色氏と行動を共にし西軍に属する。文明8年(1476年)9月、東軍細川成之の三河守護代東条国氏が三河で切腹する事案が発生するが、時家ら三河の一色勢との戦闘に敗北したためと思われる。
翌文明9年(1477年)、被官である三河国人波多野全慶に殺害された。牛頭山大聖寺(同県同市牛久保町岸組、戦国大名今川義元の胴塚の前)にある墓が時家のものとされる。
波多野全慶は、後に同じく時家の被官であった牧野成時によって討たれている。
(Wikipediaより)


一色刑部の墓
室町幕府足利の一族一色刑部少輔時家の墓である。永享11年宝飯郡長山村に築城して一色城と称した。
此処の窪地に大牛が横臥していた因縁により牛頭山大聖寺を城郭内に建て牛頭天王を祀った。文明9年時家は豪臣波多野全慶に殺され、16年後には全慶も亦牧野古伯に討たれ城主は牧野氏となる。 永正2年古伯吉田城を築いて豊橋へ出て次男成勝を瀬木城より呼んで城主とした。之より牛窪城と改まる。
周辺の案内図も立っています。

この案内板かなり役に立ちました。
地図だけでなく、各史跡間の距離、徒歩での所要時間の目安も書かれており、何しろ地図がわかりやすい!
他の史跡も豊川市の案内板を見習って欲しいな~
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牛久保といえば、山本勘助ゆかりの地でもあります。

牛久保駅から徒歩で10分ほどのところに大聖寺というお寺があります。



今川義元公墓所
戦国時代の駿河・遠江・三河の領主今川義元は永禄3年(1560)5月19日、尾張桶狭間の合戦で織田信長の奇襲にあって討死しました。
その時、首を取られた義元の胴体を家臣が背負って当地まで逃れ、この寺に葬って、とりあえず石の手水鉢をのせ墓石の代わりにしました。それが、「義元の胴塚」と言われる由来です。
嫡子上総介は永禄6年(1563)父義元の3回忌をこの寺で営み、父の位牌所として寺領を安堵しました。
その後、墓は整備され、毎年義元の命日には、地元の人々により慰霊祭が行われています。
豊川市教育委員会
この大聖寺の境内に、石柵に囲まれた今川義元の胴塚があります。


今川義元は永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで、織田信長の奇襲を受けて敗死しました。
家臣達が首のない義元の遺体を背負って駿河へ帰る途中、遺体の腐敗がひどくなり、これ以上進むのは無理だと判断し、家臣達は、ひとまずこの地に葬り、手水鉢を置いて墓じるしとしました。
嫡子の今川氏真は、父の三周忌を大聖寺で営み、位牌所として寺領の支配、諸役免除を認めた安堵状を与えました。
義元の墓の左手には、一色城の城主であった一色刑部の墓 があります。
一色時家(いっしき ときいえ)は、室町時代の武将。鎌倉公方足利持氏の家臣。
喜連川判鑑に、「一色刑部小輔 大草子ニ時家」と記載されているが、鎌倉大草紙には、「一色刑部大輔持家」と記載されている。
鎌倉公方・足利持氏に仕える(持氏の母は一色氏とする説があり、事実ならば外戚にあたる)。応永33年(1426年)、甲斐国の国人・武田信長征討に派遣され、郡内の猿橋(山梨県大月市猿橋)において交戦する。また、応永33年頃より永享の乱による持氏の滅亡まで、一色持家が相模国の守護に在職していたことが判明している。ただし、これは足利持氏が同国を事実上の御料国にするために独断で任命したもので、最終的な補任権を持つ室町幕府は持家を守護として承認したとする史料は発見されておらず、持家の就任を認めなかった室町幕府と鎌倉公方の対立を深刻化させる一要因になったとみられる。
永享10年(1438年)の永享の乱では、伯父の一色直兼と共に持氏方の大将として戦うが敗北、同族の一色氏を頼り三河国に落ち延びた。
翌11年(1439年)、三河宝飯郡宮島郷(愛知県豊川市牛久保町付近)に一色城を築城し、ここを根拠地として勢力の拡大を図る。
翌12年(1440年)5月の征夷大将軍足利義教による一色義貫誅殺は、三河守護でありながら、持氏方残党の時家を匿ったため起こったといえる。
応仁元年(1467年)、応仁の乱が勃発すると、同族の一色氏と行動を共にし西軍に属する。文明8年(1476年)9月、東軍細川成之の三河守護代東条国氏が三河で切腹する事案が発生するが、時家ら三河の一色勢との戦闘に敗北したためと思われる。
翌文明9年(1477年)、被官である三河国人波多野全慶に殺害された。牛頭山大聖寺(同県同市牛久保町岸組、戦国大名今川義元の胴塚の前)にある墓が時家のものとされる。
波多野全慶は、後に同じく時家の被官であった牧野成時によって討たれている。
(Wikipediaより)


一色刑部の墓
室町幕府足利の一族一色刑部少輔時家の墓である。永享11年宝飯郡長山村に築城して一色城と称した。
此処の窪地に大牛が横臥していた因縁により牛頭山大聖寺を城郭内に建て牛頭天王を祀った。文明9年時家は豪臣波多野全慶に殺され、16年後には全慶も亦牧野古伯に討たれ城主は牧野氏となる。 永正2年古伯吉田城を築いて豊橋へ出て次男成勝を瀬木城より呼んで城主とした。之より牛窪城と改まる。
周辺の案内図も立っています。

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- at 00:00
- [どうする家康:今川義元(どうする家康)]
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これぞ歴史が物語る牛久保の地。
牛久保があることは知ってても、
この大聖寺は知りませんし行ったことありませんから。
こうして教えられるとまたまた行きたくなる。
夕べは夕べで、たのしく家康見られましたから・・。ぽち🤩