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2023.03/19 [Sun]
お田鶴の方を祀る椿姫観音堂
浜松城周辺の史跡より、椿姫観音を紹介します。

お田鶴の方(おたづのかた)は、浜松城の前身の引馬城城主・飯尾連龍(つらたつ)の妻で、父は鵜殿長持、母は今川義元の義妹。築山殿とは今川氏の同族で、母同士が義理の姉妹にあたります。
井伊家と飯尾氏は、ともに国人領主であり、今川氏の家臣でした。
連竜の父・乗連(のりつら)は、井伊直虎の父・井伊直盛と同様、桶狭間の戦いで、今川軍の先鋒を務め、信長軍に討たれて戦死。飯尾氏も井伊家と同じく、勢いを失った今川家より、三河の徳川家康に傾倒していきます。
一方、今川家を継いだ今川氏真は、井伊直親を失い、領主に復活した直虎の曾祖父・井伊直平を除くため、井伊家を滅ぼそうと画策。氏真は飯尾に直平殺害を命じ、一方では直平に今川氏に離反した社山城(やしろやまじょう)の天野左衛門尉の攻略を命じたともいいます。(天野氏とお田鶴の方は縁戚であったとも)
永禄6年(1563年)9月18日、お田鶴の方は、直平が出陣の際、飯尾領内を通過する直平軍お接待。直平に毒入りの茶を勧め、直平は有玉旗屋の宿にて落馬し死亡しました。
氏真は、直平を飯尾氏に始末させると、次は井伊家に飯尾氏を滅ぼさせようと画策。
翌年、井伊谷城代・中野直由と新野左馬助に引馬城攻めを命じ、今川軍も加勢。
この戦で、中野直由と新野左馬助は戦死し、男たちがいなくなった井伊家は、次郎法師が還俗し、おんな城主・井伊直虎が誕生しました。
永禄11年(1568年)に連竜は曳馬城の城主となります。
後に氏真は松居郷八郎という別懇の武士を以って連竜に和談を申し入れ、酒宴を催すも、連竜は息子の辰之助と共に氏真によって駿府で切腹させられました。そして、お田鶴の方が引馬城城主を受け継いだといわれています
一方、家康は武田と戦う際の拠点として、引馬城を狙っており、松下常慶に探らせていました。そして、永禄11年(1568年)12月に家康が開城させたという説と、お田鶴の方がおんな城主として戦ったという説があります。
お田鶴の方が200有余の城兵と共にたてこもり、家康は家臣の後藤、松下の両人を派遣して城を明け渡すよう説得しましたが、お田鶴の方がが応じなかったため、止むを得ず攻撃を行うことに。
緋縅の鎧を身につけ、白柄の長刀を振うお田鶴の方、白鉢巻きにたすき掛け、刃を手にした18人の侍女の壮絶な戦いが繰り広げられ、力尽きたお田鶴の方は侍女18名と共についに討死して果てました。
お田鶴の方は、家康の正室・築山御前とは母親同士が義理の姉妹という関係にあります。
城を最後まで死守したことに感動した家康は、お田鶴の方と侍女18人の遺骸を厚く葬り塚を築き、彼女の死を哀れに思った築山御前は、討ち死にした場所に百余株の椿植えました。すると数日後に椿が微笑むようにぱっと咲きほころんだと伝えられています。
御堂は1944(昭和19)年に建立されましたが、浜松大空襲で焼け落ち、1952(昭和27)年に再建。
近年では御堂に観音様を祭り、椿姫観音として毎年11月23日に追悼供養が行われています。
(家康の散歩道パンフレット参照)


椿姫観音像


こんな可愛らしい椿姫のイラストも

井伊家との相関図

祈願石

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お田鶴の方(おたづのかた)は、浜松城の前身の引馬城城主・飯尾連龍(つらたつ)の妻で、父は鵜殿長持、母は今川義元の義妹。築山殿とは今川氏の同族で、母同士が義理の姉妹にあたります。
井伊家と飯尾氏は、ともに国人領主であり、今川氏の家臣でした。
連竜の父・乗連(のりつら)は、井伊直虎の父・井伊直盛と同様、桶狭間の戦いで、今川軍の先鋒を務め、信長軍に討たれて戦死。飯尾氏も井伊家と同じく、勢いを失った今川家より、三河の徳川家康に傾倒していきます。
一方、今川家を継いだ今川氏真は、井伊直親を失い、領主に復活した直虎の曾祖父・井伊直平を除くため、井伊家を滅ぼそうと画策。氏真は飯尾に直平殺害を命じ、一方では直平に今川氏に離反した社山城(やしろやまじょう)の天野左衛門尉の攻略を命じたともいいます。(天野氏とお田鶴の方は縁戚であったとも)
永禄6年(1563年)9月18日、お田鶴の方は、直平が出陣の際、飯尾領内を通過する直平軍お接待。直平に毒入りの茶を勧め、直平は有玉旗屋の宿にて落馬し死亡しました。
氏真は、直平を飯尾氏に始末させると、次は井伊家に飯尾氏を滅ぼさせようと画策。
翌年、井伊谷城代・中野直由と新野左馬助に引馬城攻めを命じ、今川軍も加勢。
この戦で、中野直由と新野左馬助は戦死し、男たちがいなくなった井伊家は、次郎法師が還俗し、おんな城主・井伊直虎が誕生しました。
永禄11年(1568年)に連竜は曳馬城の城主となります。
後に氏真は松居郷八郎という別懇の武士を以って連竜に和談を申し入れ、酒宴を催すも、連竜は息子の辰之助と共に氏真によって駿府で切腹させられました。そして、お田鶴の方が引馬城城主を受け継いだといわれています
一方、家康は武田と戦う際の拠点として、引馬城を狙っており、松下常慶に探らせていました。そして、永禄11年(1568年)12月に家康が開城させたという説と、お田鶴の方がおんな城主として戦ったという説があります。
お田鶴の方が200有余の城兵と共にたてこもり、家康は家臣の後藤、松下の両人を派遣して城を明け渡すよう説得しましたが、お田鶴の方がが応じなかったため、止むを得ず攻撃を行うことに。
緋縅の鎧を身につけ、白柄の長刀を振うお田鶴の方、白鉢巻きにたすき掛け、刃を手にした18人の侍女の壮絶な戦いが繰り広げられ、力尽きたお田鶴の方は侍女18名と共についに討死して果てました。
お田鶴の方は、家康の正室・築山御前とは母親同士が義理の姉妹という関係にあります。
城を最後まで死守したことに感動した家康は、お田鶴の方と侍女18人の遺骸を厚く葬り塚を築き、彼女の死を哀れに思った築山御前は、討ち死にした場所に百余株の椿植えました。すると数日後に椿が微笑むようにぱっと咲きほころんだと伝えられています。
御堂は1944(昭和19)年に建立されましたが、浜松大空襲で焼け落ち、1952(昭和27)年に再建。
近年では御堂に観音様を祭り、椿姫観音として毎年11月23日に追悼供養が行われています。
(家康の散歩道パンフレット参照)


椿姫観音像


こんな可愛らしい椿姫のイラストも

井伊家との相関図

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- [どうする家康:お田鶴の方(どうする家康)]
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きょうは天気よさそうですから、
朝食のあと出かけてまいります。
浜松にはいいところがいっぱいありで、
この観音様もその一つではありませんでしょうか。
いつもありがとうございます。🤩