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2023.02/06 [Mon]
家康手習いの寺・法蔵寺(1)
岡崎市本宿町にある法蔵寺は、徳川家康(幼名・竹千代)が幼少期に、伯父である教翁上人に就いて、読書きや漢籍などの学問を習ったといい、硯箱・硯石・手本・机・墨付小袖・破魔弓などが残されています。


飛鳥時代、行基が観音菩薩像を安置し、出生寺を創建。
南北朝時代、二村山法蔵寺と改称。
その後、松平親氏が伽藍を建立して、松平家の菩提寺としました。

桶狭間の合戦後、家康は当寺に守護不入の特権を与えるなどして優遇しました。

境内には、家康ゆかりの御草紙松・六角堂開運勝利観音・東照権現宮・おてならい井戸・お手植えの桜などが残されています。
門前にある家康お手植えの御草紙掛松

現在の松は2006年(平成18年)に植えられた4代目

法蔵寺名物として江戸時代から昭和初めごろまで、東海道を旅する人たちに親しまれた法蔵寺団子の由来

法蔵寺内にある団子型のモニュメント


701年、僧行基の開山と伝えられ、松平初代親氏が深く帰依して、1387年に堂宇を建立し、寺号を法蔵寺としたと言われています。
家康が幼いころ、手習いや漢籍を学んだとされ、数々の遺品が現存しています。
桶狭間の合戦以後、家康は法蔵寺に守護不入の特権を与えるなど優遇しました。
また、境内には新撰組で有名な、近藤勇の首塚も祀られています。

浄土宗西山深草派の三河三檀林のひとつ。二村山と号し、本尊は阿弥陀如来像。
寺伝では行基と空海の伝承があり、二村山出生寺と称し、古くは法相宗、真言宗であったと伝える。
至徳2年(1385)京都円福寺より来往した教空龍芸が浄土宗に改宗し、その時法蔵寺と改められた。
江戸時代には、東海道に接していることから、参拝者も多く、かつ、幕府の庇護も厚かったため、大いに権勢をふるった寺であった。
家康が幼時この寺で勉学したとされ徳川家ゆかりの宝物が多く残されている。

本堂


イヌマキ

行基が開山の際に植えたと伝わる槇
家康お手植えの桜と伝わるヤマザクラ

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飛鳥時代、行基が観音菩薩像を安置し、出生寺を創建。
南北朝時代、二村山法蔵寺と改称。
その後、松平親氏が伽藍を建立して、松平家の菩提寺としました。

桶狭間の合戦後、家康は当寺に守護不入の特権を与えるなどして優遇しました。

境内には、家康ゆかりの御草紙松・六角堂開運勝利観音・東照権現宮・おてならい井戸・お手植えの桜などが残されています。
門前にある家康お手植えの御草紙掛松

現在の松は2006年(平成18年)に植えられた4代目

法蔵寺名物として江戸時代から昭和初めごろまで、東海道を旅する人たちに親しまれた法蔵寺団子の由来

法蔵寺内にある団子型のモニュメント


701年、僧行基の開山と伝えられ、松平初代親氏が深く帰依して、1387年に堂宇を建立し、寺号を法蔵寺としたと言われています。
家康が幼いころ、手習いや漢籍を学んだとされ、数々の遺品が現存しています。
桶狭間の合戦以後、家康は法蔵寺に守護不入の特権を与えるなど優遇しました。
また、境内には新撰組で有名な、近藤勇の首塚も祀られています。

浄土宗西山深草派の三河三檀林のひとつ。二村山と号し、本尊は阿弥陀如来像。
寺伝では行基と空海の伝承があり、二村山出生寺と称し、古くは法相宗、真言宗であったと伝える。
至徳2年(1385)京都円福寺より来往した教空龍芸が浄土宗に改宗し、その時法蔵寺と改められた。
江戸時代には、東海道に接していることから、参拝者も多く、かつ、幕府の庇護も厚かったため、大いに権勢をふるった寺であった。
家康が幼時この寺で勉学したとされ徳川家ゆかりの宝物が多く残されている。

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- [どうする家康:徳川家康(どうする家康)]
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NoTitle
本宿にあるんですか、
このようなお寺さん法蔵寺というんですか。
知らないだけで家康公と関係あるところ、
それはもうある過ぎぐらいですね。
勉強になります。
きょうもありがとうございます。🤩