fc2ブログ

大河ドラマに恋して

NHK大河ドラマ「光る君へ」「どうする家康」「鎌倉殿の13人」「青天を衝け」「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」「八重の桜」「平清盛」「江」の史跡巡りと歴旅紀行

Entries

家康の身代わりとなった夏目吉信と酒井の太鼓

浜松市中区布橋の犀ヶ崖古戦場の一角(現在はバス停の前)に夏目次郎左衛門吉信の碑があります。

IMG_3128 夏目吉信の碑

IMG_3130 さいが崖

IMG_3125 夏目吉信の碑

IMG_3127 夏目吉信の碑

夏目吉信は1563年の三河一向一揆で処刑されるところを徳川家康の寛大な処置によって助けられました。

それ以来、家康に恩を感じ、三方ヶ原の合戦の際、敗走中の家康の身代わりとなり、「我こそは家康なり」と武田軍の前に立ちはだかり、討ち死にしました。

IMG_3126 夏目吉信の碑

「家康伝承と浜松」によると、

馬を乗り回して、必死に戦った家康は、負傷した家臣を城に戻し、自ら敵中に踊り入ろうとした時、夏目次郎左衛門吉信は、家康の心中を察し、家康の馬の口を城の方に向け、尻を叩くと馬は驚いて駆けだした。

吉信は家康を見送り、敵中に突入して10数人倒した後、討ち死にしたという。



Wikipediaによると、

元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いの時、吉信は浜松城の留守居だったが、櫓に登って戦場を遠望して味方が敗色濃厚なのを知って家康の救援に向かう。退却を進言するが、止めるのも聞かず家康が決死の突撃をしようとするので、説得を諦めて、強引に乗馬の向きを変えて、刀のみねで打って奔らせた。家康を逃がすために、自らを家康と称し、十文字の槍を持ち、25騎を率いて武田勢の追手に突入して奮戦。身代わりとなって戦死した。享年55。後に、家康は本宿の法蔵寺に三方ヶ原戦死者の慰霊碑を建てさせるとともに、吉信の忠烈に感じて、「信誉徹忠居士」と刻んだ吉信の墓を建てさせている。


吉信が討ち死にした当時、長男・次男はすでに死亡しており、三男信次も出奔して松下姓を称していたため、四男の吉忠があとを継いだ。吉忠は韮山城に一万石で封ぜられる予定であったが、封地に赴く前に病死し、子の万千代も六歳で早世した。吉信の三男・信次は、口論となった同僚を斬り殺し出奔し、変名して徳川氏に仕えていた。慶長10年(1605年)に家康に名を問われて、父が吉信であると告げた。家康はその罪は重いとしながらも、父・吉信の忠節を考慮して許された。また信次の弟吉次 (杢左衛門)は兄とともに出奔して加藤清正に仕えていたが、この際に召還されて徳川秀忠の家臣に配された。信次はその後常陸国で530石を領する旗本となった。 寛政重修諸家譜には10家の夏目一族が収録されている。


なお、あの文豪夏目漱石は夏目氏の後裔だそうです。


また、岡崎の法蔵寺にも三方ヶ原の合戦忠死者の墓があり、吉信の墓もあります。

三方ヶ原の合戦忠死者の墓
IMG_0253 法蔵寺

夏目次郎左衛門吉信と鳥井四郎左衛門の墓

IMG_0260 夏目次郎左衛門吉信の墓




浜松城へ到着した徳川家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、空城計を行ったと伝えられています。

浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計によって警戒心を煽られ、城内に突入することを躊躇し、そのまま引き上げたといいます。


空城計(くうじょうけい)または空城の計(くうじょうのけい)は兵法三十六計の第三十二計にあたる戦術で、あえて自分の陣地に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘う計略のこと。

三方ヶ原の戦いで、徳川軍は武田軍に敗れて浜松城に逃げ帰った。武田軍はこれを追撃するが、家康は「あえて大手門を開き、内と外に大かがり火を焚かせた」。敗走する徳川軍を追撃して、浜松城門近くまで押し寄せてきた山県昌景・馬場信春の両隊は、大手門が大きく開かれ、かがり火が焚かれているのを見て、それに警戒して攻撃をためらっているところへ、三方ヶ原から引き揚げてきた徳川方の大久保康高らと遭遇し、慌てて引き返そうとしたしたところを城内から討って出た鳥居元忠・渡辺守綱らの軍勢に挟み撃ちになり、苦戦の末、ようやく名栗方面へ脱出することができた。


『三国志演義』では蜀の諸葛亮が野戦で魏に敗れた際、蜀軍は魏軍と比べて圧倒的に兵力が少なかった。諸葛亮は一計を案じ、城に引きこもって城内を掃き清め、城門を開け放ち、兵士たちを隠して自らは一人楼台に上って琴を奏でて魏軍を招き入れるかのような仕草をした。魏の司馬懿は諸葛亮の奇策を恐れてあえて兵士に城内に踏み込ませなかったという。

三国志演義の「空城計」を描いた絵
Ruse_with_an_Empty_City_.jpg


岡崎の籠田公園と桜城橋を結ぶ全長約320mの”みちひろば”中央緑道に、徳川四天王の像が設置されています。

酒井忠次
IMG_0072  酒井忠次

酒井の太鼓」は、酒井忠次が、徳川家康が大敗した「三方ヶ原の戦い」で、城に攻め入ろうとした武田軍を太鼓を打ち鳴らして撤退させたというもので、歌舞伎の演目などで語り継がれてきました。

Sakai_Tadatsugus_drum.jpg
月岡芳年『酒井忠次時鼓打之図」

三方原の戦いで敗れ、浜松城に逃げ帰った家康は後から来る家臣のために城の門は開けたままにし、かがり火を焚いた。すると、酒井忠次が物見櫓で大太鼓を打ち鳴らした。城の近くまで来ていた武田軍は、勇気に満ちた太鼓の音に、奇策がめぐらされているのではと思い、城内に攻め込むのをやめたという。(家康伝承と浜松)

三方ヶ原の戦いでは、家康が浜松城に逃げ帰った後、忠次が城の櫓上にて太鼓を打ち鳴らして味方を鼓舞し、武田方には伏兵のあることを疑わせて引き返させたとする「酒井の太鼓」の話は、河竹黙阿弥の『太鼓音知勇三略』(後に新歌舞伎十八番の一編となる)が明治6年(1873年)3月に村山座で初演されたのが人気を博したことで知られるようになったもので、『三河後風土記』が典拠とされる。(wikipediaより)


にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。
応援よろしくお願いします!

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村

歴女日記ブログランキングに参加しています。
ご協力お願いしますm(__)m


歴女日記ランキング

スポンサーサイト



Comment

NoTitle 

おはようございます。
まあまあぁ粋なところがあるでありませんか。
こんなところ散策して見たくなる。
古戦場跡というからにはそれなりの痕跡もあり❔。
夏目なる人物のことも勉強しなければいけませんね・・。
きょうもすこやかにお過ごしください。

  • posted by マーチャン 
  • URL 
  • 2023.05/14 05:08分 
  • [Edit]

NoTitle 

一向一揆ですか。

戦国時代、一向宗の団結力というのは
権力者にとっては脅威だったでしょうねぇ。

応援ぽち
  • posted by よっちん 
  • URL 
  • 2023.05/14 12:34分 
  • [Edit]

こんばんは 

こんばんは。
この夏目さんはすごい人ですね。
漱石の祖先ですか。
オンラインプレジデントの記事を少し読みました。
家康が生き延びたのは奇跡に近いと。
こう言うことが重なって生き延びられたのでしょうね。
  • posted by 自転車親父 
  • URL 
  • 2023.05/14 20:00分 
  • [Edit]

NoTitle 

夏目氏は、素晴らしい行動だったのですね。
しかも夏目漱石のご先祖様とはびっくりです。
応援ぽち2.
  • posted by みかん農家 
  • URL 
  • 2023.05/14 22:08分 
  • [Edit]

皆様へ 

こんばんは。
今日もコメントありがとうございました。
今晩の主役は、夏目吉信。
広次という名の方が、一次資料で確認できる実名なのだそうです。
家康の身代わりになり、見事に武士らしい最期を遂げました。
家康は、家臣団に何度も助けられていきますね。
  • posted by しずか 
  • URL 
  • 2023.05/14 22:35分 
  • [Edit]

Comment_form

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

左サイドMenu

プロフィール

しずか

Author:しずか
毎年の大河ドラマに合わせて旅行、史跡めぐりをしています。

大河ドラマに恋して - にほんブログ村

最新記事

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

光 (3)

FC2カウンター

オンラインカウンター

現在の閲覧者数:

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
45位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
13位
アクセスランキングを見る>>

アクセス解析