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2023.03/11 [Sat]
引間城本丸跡に建つ元城町東照宮(1)
浜松城の前身は15世紀頃に築城された引間城(曳馬城)でした。築城者については諸説あり。
室町時代中期には三河国の吉良氏が支配していたことが判明しています。
遠江の斯波氏と駿河の今川氏の抗争中、吉良氏の家臣団の中で斯波氏方の大河内貞綱と今川氏に味方をする飯尾乗連(またはその父飯尾賢連)が争い、大河内貞綱が破れると、吉良氏も浜松の支配権を失い、今川氏親配下の飯尾氏がこの地に入部し、飯尾乗連(あるいは父の飯尾賢連)が1514年(永正11)に曳馬城主として入城したといわれています。
この頃の曳馬城は、江戸時代の絵図にみられる「古城」と表記された部分であり、現在の元城町東照宮付近にあたります。
今川義元が桶狭間で討ち死にした後、城主の飯尾連龍(つらたつ)は今川氏真に反旗を翻してます。連龍が和議の謀略で誘殺された後も飯尾氏の残党が城を守っていましたが、1568年(永禄11)末に徳川家康によって攻略されました。
1570年(元亀1)、家康は武田信玄の侵攻に備えるために、本拠地を三河国の岡崎城から曳馬城へ移し、城を拡張整備した際、曳馬という名前が「馬を引く」、つまり敗北につながることから浜松城と改名したといわれています。
現在、引間城本丸跡に元城町東照宮が建っています。
浜松城公園駐車場の向かいにあるペットと一緒に楽しめるドッグレストラン&ドッグラン「ドッグルハウス」から、元城町東照宮に曲がる角には、

引間城跡の碑があり、


角を曲がったところには、家康公ご住居跡の案内板があります。


明治19年旧幕臣・井上延陵の発起により創建されました。
石の鳥居の横には「曳馬城跡」(引馬城址)と書かれた石碑があります。


引間城本丸跡
鎌倉時代の浜松は、「ひきま(ひくま)」と呼ばれる町でした。現在の馬込(まごめ)川が天竜川の本流にあたり、西岸に町屋が発達しました。「船越」や「早馬(はやうま)」はこの頃の地名です。
戦国時代、この町を見下ろす丘の上に引間城が築かれます。歴代の城主には、尾張の斯波方の巨海氏・大河内氏、駿河の今川方の飯尾氏などがおり、斯波氏と今川氏の抗争の中で、戦略上の拠点となっていきました。この時代の浜松には、同じ今川方で、少年時代の豊臣秀吉が初めて仕えた松下加兵衞(頭陀寺城城主)がいました。松下氏に連れられて、秀吉は引間城を訪れています。 徳川家康が最初に居城としたのもこの城です。元亀3年12月(1573)、武田信玄との三方ヶ原の戦いに、家康は「浜松から撤退するくらいなら武士をやめる」という強い覚悟で臨みましたが、引間城の北口にあたる「玄黙(玄目)口」へ撤退したと言われています。このころまで引間城が重要な拠点だったことがわかります。
その後、城主となった豊臣系の堀尾吉晴以降、浜松城の増改築が進むにつれ、引間城は城の主要部から外れ、「古城」と呼ばれて米蔵などに使われていました。明治19年、旧幕臣・井上延陵が本丸跡に家康を祭神とする元城町東照宮を勧請し、境内となっています。
平成27年1月 監修:静岡文化芸術大学 磯田道史教授



元城町東照宮由緒
御祭神徳川家康公 事代主命 大国主命
明治維新後浜松藩代たりし旧幕臣井上八郎氏に依り明治十七年
元城町古城(旧曳馬城跡)に創建せられその管理祭祀を大日本
報徳社に委ねていたが昭和十一年その所有権が井上家より亦管
理権が大日本報徳社より大石力氏に引継がれ、その後元城町の
氏神として奉斎する事となり村社に列せられた昭和二十年戦災
により焼失せるも昭和三十四年に社殿手水社社務所等を再建し
今日に至る。
手水舎には、日光東照宮にもあるような「眠り猫」「鳳凰」「龍」などが見られます。




権現道


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室町時代中期には三河国の吉良氏が支配していたことが判明しています。
遠江の斯波氏と駿河の今川氏の抗争中、吉良氏の家臣団の中で斯波氏方の大河内貞綱と今川氏に味方をする飯尾乗連(またはその父飯尾賢連)が争い、大河内貞綱が破れると、吉良氏も浜松の支配権を失い、今川氏親配下の飯尾氏がこの地に入部し、飯尾乗連(あるいは父の飯尾賢連)が1514年(永正11)に曳馬城主として入城したといわれています。
この頃の曳馬城は、江戸時代の絵図にみられる「古城」と表記された部分であり、現在の元城町東照宮付近にあたります。
今川義元が桶狭間で討ち死にした後、城主の飯尾連龍(つらたつ)は今川氏真に反旗を翻してます。連龍が和議の謀略で誘殺された後も飯尾氏の残党が城を守っていましたが、1568年(永禄11)末に徳川家康によって攻略されました。
1570年(元亀1)、家康は武田信玄の侵攻に備えるために、本拠地を三河国の岡崎城から曳馬城へ移し、城を拡張整備した際、曳馬という名前が「馬を引く」、つまり敗北につながることから浜松城と改名したといわれています。
現在、引間城本丸跡に元城町東照宮が建っています。
浜松城公園駐車場の向かいにあるペットと一緒に楽しめるドッグレストラン&ドッグラン「ドッグルハウス」から、元城町東照宮に曲がる角には、

引間城跡の碑があり、


角を曲がったところには、家康公ご住居跡の案内板があります。


明治19年旧幕臣・井上延陵の発起により創建されました。
石の鳥居の横には「曳馬城跡」(引馬城址)と書かれた石碑があります。


引間城本丸跡
鎌倉時代の浜松は、「ひきま(ひくま)」と呼ばれる町でした。現在の馬込(まごめ)川が天竜川の本流にあたり、西岸に町屋が発達しました。「船越」や「早馬(はやうま)」はこの頃の地名です。
戦国時代、この町を見下ろす丘の上に引間城が築かれます。歴代の城主には、尾張の斯波方の巨海氏・大河内氏、駿河の今川方の飯尾氏などがおり、斯波氏と今川氏の抗争の中で、戦略上の拠点となっていきました。この時代の浜松には、同じ今川方で、少年時代の豊臣秀吉が初めて仕えた松下加兵衞(頭陀寺城城主)がいました。松下氏に連れられて、秀吉は引間城を訪れています。 徳川家康が最初に居城としたのもこの城です。元亀3年12月(1573)、武田信玄との三方ヶ原の戦いに、家康は「浜松から撤退するくらいなら武士をやめる」という強い覚悟で臨みましたが、引間城の北口にあたる「玄黙(玄目)口」へ撤退したと言われています。このころまで引間城が重要な拠点だったことがわかります。
その後、城主となった豊臣系の堀尾吉晴以降、浜松城の増改築が進むにつれ、引間城は城の主要部から外れ、「古城」と呼ばれて米蔵などに使われていました。明治19年、旧幕臣・井上延陵が本丸跡に家康を祭神とする元城町東照宮を勧請し、境内となっています。
平成27年1月 監修:静岡文化芸術大学 磯田道史教授



元城町東照宮由緒
御祭神徳川家康公 事代主命 大国主命
明治維新後浜松藩代たりし旧幕臣井上八郎氏に依り明治十七年
元城町古城(旧曳馬城跡)に創建せられその管理祭祀を大日本
報徳社に委ねていたが昭和十一年その所有権が井上家より亦管
理権が大日本報徳社より大石力氏に引継がれ、その後元城町の
氏神として奉斎する事となり村社に列せられた昭和二十年戦災
により焼失せるも昭和三十四年に社殿手水社社務所等を再建し
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NoTitle
とうとう出てきましたね浜松城。
そろそろ大河も静岡へと舞台が移る?。
そんな感じですからこうしてきめ細やかに、
記事にして教えられるとわくわくで、
それはまた興味も倍増して来るでしょうから・・。🤩