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2023.03/22 [Wed]
堀川城跡と獄門畷
井伊谷三人衆(いいのやさんにんしゅう)は、永禄11年(1568年)末に徳川家康が遠州攻めを行った際に今川氏真から徳川方へ離反した近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時の3人のことをいいます。
永禄11年(1568年)徳川家康は遠江侵攻の際、今川氏への忠誠心が強い遠州浜名湖の沿岸部を有する領主たちが障害となることを恐れ、東三河の菅沼定盈を使って懐柔。
定盈は同族の菅沼忠久に接触、忠久が縁戚の鈴木重時を抱き込み、近藤康用まで取り込むことに成功。
これにより家康は、井伊谷から曳馬城陥落へと早期攻略を進めていきました。
静岡県浜松市北区細江町気賀にあった堀川城は、奥浜名湖の北岸に位置し、浜名湖の潮の干満を利用した構造でした。
満潮時には道が塞がる干潟の中にあり、船
を使わないと城へ行けなかったようです。
永禄12年(1569年)、今川方の土豪・斉藤為吉が徳川家康に抵抗して落城し、その後城方に協力した700余人もの村人たちが首を討たれたといいます。
>


伝堀川城跡
永禄11年(1568)、徳川家康は、遠江侵攻にあたって、井伊家の被官であった
井伊谷三人衆、近藤康用(やすもち)、菅沼忠久(ただひさ)、
鈴木重時(しげとき)らを調略し、彼らの本領を安堵しました。
これにより、家康は井伊谷から刑部城(おさがべじょう)、引間城へと軍を進め、
遠江に前線を得ました。
しかし今川配下に土豪と農民たちは堀川城に立て篭って抵抗しました。
翌、永禄12年(1569)徳川家康の遠江侵攻にも、もっとも強く抵抗した城跡です。
当時の浜名湖の湖岸にあって、水辺の守りを固めた砦だったとおもわれます。
形や場所ははっきりしません。
ここで家康は篭城兵を「撫で斬り」とし、敗残兵を探し出して
気賀の獄門畷にさらし首にしています。
城兵は全滅となりましたが、一部の兵が対岸の堀江城に渡り、落城の情報を伝え、
堀江城は家康との和睦を選択します。
同じ今川家に仕えた遠江の諸将には、それぞれにとって大きな選択の年となりました。
なお、井伊谷三人衆は家康の命で後に井伊直政につきますが、
やがてそれぞれ独立していきました。
平成28年3月 北区まちづくり推進課

この辺りが首塚といわれているそうです。

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにて今川義元が戦死した後、土地の人々が砦を築き、地名より堀川城と名付けた。ほど近い刑部にも刑部城を築き、徳川家康の遠江侵攻に備えた、と伝えられている。
正確な築城期は不明であるが、当時は今川氏の勢力下であった。
永禄11年(1568年)に、今川氏真から瀬戸方久に出した徳政令を免じる安堵状の中で、代わりに新城の備蓄を賄うように条件が付いており、この新城が刑部城・堀川城では、と見られている。
同年、徳川家康は本坂峠を越えて岡崎から湖北へ攻め込み、刑部城を落城させた。今川方で近隣の堀江城主大沢左衛門は家康に抵抗しており、大沢氏と連携した土豪の新田友作、尾藤主膳、山村修理らは、地元の農民など雑兵約1,700人を集めて気賀の堀川城に立て籠もった。
永禄12年(1569年)2月に掛川城を落とした家康は、同年3月27日、再び本坂峠を越えて堀川城を攻め、堀川城は徳川勢によって一方的に殺戮された。尾藤主膳は堀江城の大沢へ逃れたが切腹させられ、山村修理は本坂道を葭本まで逃れたが自害、新田友作は逃亡した。城兵は約半数が殺害され、半数が捕えられたが、家康は石川半三郎に命じて捕虜を皆殺しとし、約700人を女子供も含めて都田川の堤で全員首を刎ねた。新田はその後、葭本の金地院に戻り戦死者の菩提を弔っていたが、10年後に徳川方に見つかり、都田川の堤で処刑された。(堀川城ーWikipediaより)
なお、瀬戸方久が、刑部城・堀川城の軍資調達を請け負う代わりに、自身の田畑や屋敷を徳政令の対象外とする安堵状を得て、その後堀川城主となり、新田喜斎と名前を変えたという説があります。
Wikipediaによると、
「瀬戸方久が新田姓を名乗り、堀川城主をしていたという説が存在する。
瀬戸方久は瀬戸の姓を貰う前は松井姓を名乗っており、徳川家康の侵攻に際しては井伊氏とともに恭順しており、家康からも安堵状を得ている記録があるため、この説とはそぐわない。新田友作は、堀川城の戦い後の隠遁中に出家し「法休」を名乗っていたため、これを瀬戸「方久」と混同、同一視したものとみられる。
とあります。」
瀬戸方久=堀川城主=新田喜斎という説は本当なのでしょうか?
前に参加した講座では、
瀬戸方久は、商人だから、城主になったということはないだろうとの見解でした。
気賀の姫街道(国道362号線)呉石バス停付近に「獄門畷(ごくもんなわて)」の案内板と堀川城将士最期之地の碑があります。
獄門畷は、徳川家康の遠州侵攻を防ごうとした気賀の人々が、堀川城落城後に捕らえられ、700人余が斬首され、小川沿いの土手にさらし首にされたところです。



獄門畷(ごくもんなわて)
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、今川義元が戦死した後、徳川家康の遠州侵攻を防ごうと、気賀の人々は、領主今川氏のために堀川城を造り、最後まで戦った。堀川城址は、ここから南へ600メートル程にある。永禄12年(1569)3月27日、堀川城に2000人の
男女が立てこもり、3000人の家康軍に攻められて、落城したといわれている。大久保彦左衛門の記録に「男女共になで切りにし。」
とある。そしてその後に捕えられた約700人の人々も、同年9月9日にこの付近で首を打たれた。その首をこの小川に沿った土手にさらしたので「ごくもんなわて」と言われるようになった。
細江町教育委員会
当時の住民の約半数を虐殺したとは・・・
家康にもこんなブラックな過去があったのですね(゚Д゚)
堀川将士最期之地の碑

碑の裏側

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永禄11年(1568年)徳川家康は遠江侵攻の際、今川氏への忠誠心が強い遠州浜名湖の沿岸部を有する領主たちが障害となることを恐れ、東三河の菅沼定盈を使って懐柔。
定盈は同族の菅沼忠久に接触、忠久が縁戚の鈴木重時を抱き込み、近藤康用まで取り込むことに成功。
これにより家康は、井伊谷から曳馬城陥落へと早期攻略を進めていきました。
静岡県浜松市北区細江町気賀にあった堀川城は、奥浜名湖の北岸に位置し、浜名湖の潮の干満を利用した構造でした。
満潮時には道が塞がる干潟の中にあり、船


永禄12年(1569年)、今川方の土豪・斉藤為吉が徳川家康に抵抗して落城し、その後城方に協力した700余人もの村人たちが首を討たれたといいます。
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伝堀川城跡
永禄11年(1568)、徳川家康は、遠江侵攻にあたって、井伊家の被官であった
井伊谷三人衆、近藤康用(やすもち)、菅沼忠久(ただひさ)、
鈴木重時(しげとき)らを調略し、彼らの本領を安堵しました。
これにより、家康は井伊谷から刑部城(おさがべじょう)、引間城へと軍を進め、
遠江に前線を得ました。
しかし今川配下に土豪と農民たちは堀川城に立て篭って抵抗しました。
翌、永禄12年(1569)徳川家康の遠江侵攻にも、もっとも強く抵抗した城跡です。
当時の浜名湖の湖岸にあって、水辺の守りを固めた砦だったとおもわれます。
形や場所ははっきりしません。
ここで家康は篭城兵を「撫で斬り」とし、敗残兵を探し出して
気賀の獄門畷にさらし首にしています。
城兵は全滅となりましたが、一部の兵が対岸の堀江城に渡り、落城の情報を伝え、
堀江城は家康との和睦を選択します。
同じ今川家に仕えた遠江の諸将には、それぞれにとって大きな選択の年となりました。
なお、井伊谷三人衆は家康の命で後に井伊直政につきますが、
やがてそれぞれ独立していきました。
平成28年3月 北区まちづくり推進課

この辺りが首塚といわれているそうです。

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにて今川義元が戦死した後、土地の人々が砦を築き、地名より堀川城と名付けた。ほど近い刑部にも刑部城を築き、徳川家康の遠江侵攻に備えた、と伝えられている。
正確な築城期は不明であるが、当時は今川氏の勢力下であった。
永禄11年(1568年)に、今川氏真から瀬戸方久に出した徳政令を免じる安堵状の中で、代わりに新城の備蓄を賄うように条件が付いており、この新城が刑部城・堀川城では、と見られている。
同年、徳川家康は本坂峠を越えて岡崎から湖北へ攻め込み、刑部城を落城させた。今川方で近隣の堀江城主大沢左衛門は家康に抵抗しており、大沢氏と連携した土豪の新田友作、尾藤主膳、山村修理らは、地元の農民など雑兵約1,700人を集めて気賀の堀川城に立て籠もった。
永禄12年(1569年)2月に掛川城を落とした家康は、同年3月27日、再び本坂峠を越えて堀川城を攻め、堀川城は徳川勢によって一方的に殺戮された。尾藤主膳は堀江城の大沢へ逃れたが切腹させられ、山村修理は本坂道を葭本まで逃れたが自害、新田友作は逃亡した。城兵は約半数が殺害され、半数が捕えられたが、家康は石川半三郎に命じて捕虜を皆殺しとし、約700人を女子供も含めて都田川の堤で全員首を刎ねた。新田はその後、葭本の金地院に戻り戦死者の菩提を弔っていたが、10年後に徳川方に見つかり、都田川の堤で処刑された。(堀川城ーWikipediaより)
なお、瀬戸方久が、刑部城・堀川城の軍資調達を請け負う代わりに、自身の田畑や屋敷を徳政令の対象外とする安堵状を得て、その後堀川城主となり、新田喜斎と名前を変えたという説があります。
Wikipediaによると、
「瀬戸方久が新田姓を名乗り、堀川城主をしていたという説が存在する。
瀬戸方久は瀬戸の姓を貰う前は松井姓を名乗っており、徳川家康の侵攻に際しては井伊氏とともに恭順しており、家康からも安堵状を得ている記録があるため、この説とはそぐわない。新田友作は、堀川城の戦い後の隠遁中に出家し「法休」を名乗っていたため、これを瀬戸「方久」と混同、同一視したものとみられる。
とあります。」
瀬戸方久=堀川城主=新田喜斎という説は本当なのでしょうか?
前に参加した講座では、
瀬戸方久は、商人だから、城主になったということはないだろうとの見解でした。
気賀の姫街道(国道362号線)呉石バス停付近に「獄門畷(ごくもんなわて)」の案内板と堀川城将士最期之地の碑があります。
獄門畷は、徳川家康の遠州侵攻を防ごうとした気賀の人々が、堀川城落城後に捕らえられ、700人余が斬首され、小川沿いの土手にさらし首にされたところです。



獄門畷(ごくもんなわて)
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、今川義元が戦死した後、徳川家康の遠州侵攻を防ごうと、気賀の人々は、領主今川氏のために堀川城を造り、最後まで戦った。堀川城址は、ここから南へ600メートル程にある。永禄12年(1569)3月27日、堀川城に2000人の
男女が立てこもり、3000人の家康軍に攻められて、落城したといわれている。大久保彦左衛門の記録に「男女共になで切りにし。」
とある。そしてその後に捕えられた約700人の人々も、同年9月9日にこの付近で首を打たれた。その首をこの小川に沿った土手にさらしたので「ごくもんなわて」と言われるようになった。
細江町教育委員会
当時の住民の約半数を虐殺したとは・・・
家康にもこんなブラックな過去があったのですね(゚Д゚)
堀川将士最期之地の碑

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- [どうする家康:徳川家康(どうする家康)]
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悲しいかな堀川城なるものは知りませんから、
先ほどからじっくり見せていただいて、
頭がボケ気味ですが、
勉強させてもらってる楽しませていただいています。
いつもありがとうございます‥。🤩