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大河ドラマに恋して

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牛久保開城と三河国平定

牛久保城は三河国宝飯郡牛久保にあった平城です。

享禄2年(1529年)に宝飯郡の牧野城主であった牧野成時(古白)の子、成勝が築城したと伝えられています。
以来、成勝、貞成、成定、康成の牧野氏4代にわたる居城となりました。

牧野成定の時代の1561年(永禄4)に、前年の桶狭間の戦いで今川氏から自立して三河の平定に乗り出した松平元康(徳川家康)の奇襲攻撃を受けますが、この奇襲は失敗し、牛久保城はしばらくの間、今橋城(吉田城)とともに、家康に対する今川氏真の反撃の拠点となりました。

このため、牛久保城は家康の攻略目標となり、永禄8年(1565年)3月には吉田城が落城。

1566年(永禄9)5月、牛久保城は家康に降伏して開城、成定は酒井忠次・石川家成を通じて家康に帰属。

永禄9年(1566年)4月20日に、岡崎城で家康の謁見を受けて所領安堵されました。

牧野氏の臣属・牛久保開城により徳川家康の東三河併合は決定的となりました。

三河国を統一した際、家康は、西三河衆(旗頭:石川家成(後に石川数正))・東三河衆(旗頭:酒井忠次)・旗本の三備の制への軍制改正を行い、旗本には旗本先手役を新たに置きました。

同年11月18日に家康は正式に従五位下三河守に任じられ、その際、苗字を「徳川」に改姓、「徳川家康」が誕生しました。

1590年(天正18)、主君の家康の関東移封に伴い、康成牛も上野国勢多郡大胡2万石に拠点を移し、初代大胡藩主となりました。

その後、牛久保城は吉田城に入城した池田輝政の支城となり、重臣の荒尾成久が城主に。

1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いののち、牛久保一帯が天領(幕府直轄領)となり、牛久保城の一部が代官所として使われましたが、1700年(元禄13)に廃城となりました。

牛久保城はかつて豊川の古い河岸段丘を利用した2重の水堀を備えた平城でありましたが、現在はその遺構が全く滅失しています。しかし城跡周辺には城跡・城下・大手などの小字が残り、往時をしのばせました。過去の発掘の結果、堀の遺構は確認されています。(豊川市観光協会HP、コトバンクより)

IMG_8356 牛久保城跡

牛久保城跡の駒札

牛久保城跡
この地にあった牛久保城は、享禄2年(1529年)一色城牧野成勝(まきのしげかつ)が、今橋城主(のちの吉田城主)の信成(のぶしげ)の名を受けて築城したといわれています。
扇状台地の端につくられた平城で、南は遠く下郷の地を一望でき、北には二重の堀をめぐらせた城でした。
城を取り囲むように、武家の屋敷が配置され、その北に町人の家が通りに面して連なり、さらに周辺に寺院があって外敵に備えていました。
城に向かって真っすぐに入る道はなく、すべての道が曲尺手(かねんて)になっていて、近世の城下町の先駆けをなすものだったようです。
のちに、牛久保は天領となり元禄13年(1700年)廃城になりました。
いまは、昔の面影はなく、JR牛久保駅周辺にある「城跡」「大手」「城下」等の地名がわずかに昔を忍ばせています。

豊川市教育委員会

IMG_8358 牛久保城跡


IMG_8359 牛久保城跡

牛久保城の戦い

牛久保城は、直接的な城攻めを受けた記録は少ない。永正3年(1506年)の今川氏親、享禄2年(1529年)・天文元年(1532年)の松平清康の吉田城(城主牧野田蔵)攻めの際にも牛窪城ないし牛久保城は直接攻撃を免れている。
代表的な牛久保城合戦に永禄4年(1561年)4月の徳川家康(当時は松平元康)の奇襲攻撃がある。
桶狭間の戦い後、今川氏の桎梏を離れた家康は織田信長と秘密裏に和睦を進め、三河全土の領国化を企図した。当時今川氏の勢力下にあった東三河地方の併合を実現するために設楽氏・菅沼氏・西郷氏等の国人を調略して駐留今川軍の拠点の一つであった牛久保城攻略を図った。
牛久保城主牧野成定は今川義元の指示により西三河の西尾城を弘治3年(1557年)よりこの時まで在番守備しており、居城の牛久保城は宿老稲垣重宗(平右衛門尉)及び真木氏に留守を任せていた。牛久保衆の主力は成定及び稲垣長茂(藤助)の率いる西尾城の在番部隊と設楽郡の野田城の番詰部隊に分割されており、本拠地・牛久保城の守備は手薄であった。
家康は牛久保衆の稲垣林四郎・牧野弥次右兵衛尉・牧野平左衛門尉父子等有力家臣をも調略のうえ、永禄4年4月11日夜に牛久保城へ奇襲攻撃(夜襲)をかけた(永禄4年4月11日牛久保城の戦い)。
留守居の稲垣重宗はちょうど自領の牛久保領賀茂(豊橋市賀茂町)に帰っており、城は真木兵庫助一族(真木越中守定安)らごく少数の番手しかいなかったため落城の危機に陥ったが、真木氏の奮戦により持ちこたえ、やがて賀茂で松平方内通勢力の重囲を抜け出した稲垣重宗が馳せ戻り城内風呂構えで自ら太刀討ちするなどして翌12日を迎えた。
結局、家康の夜襲は失敗に終わった。ことは駿府の今川氏真に知れ、以後牧野出羽守・朝比奈紀伊守ら今川軍の猛反撃が始まることになる。また、この戦いの発生まで今川氏側は徳川家康=松平元康の自立の動きを認識しておらず、今川氏から見れば「松平蔵人(徳川家康)の叛逆」、松平氏(徳川氏)から見れば「今川氏からの自立」がここから始まったと言える。
この牛久保城の攻防戦で、真木越中守が獅子奮迅の働きをして討ち死にした。このときの困難な戦いを氏真は高く評価し、感状を真木氏の遺子2名宛てに直接授けた。この事実を真木氏は、槙文書として伝えている。
城主牧野成定も西尾城を夜陰に紛れて脱出し、牛久保城に無事に帰還した。また、同時期、野田城でも城内に松平方内通が発覚し番詰めの牛久保衆は牛久保城に帰城し、退却してきた駐留今川軍も牛久保城に入った。以後、今川氏真は牛久保・吉田両城を反撃の拠点とした。このため、永禄年間、牛久保城は家康の主要な攻撃目標となるが、周辺に設置された今川方諸砦もあいまって野戦が展開され(永禄6年3月牛久保城の戦い等)、永禄9年(1566年)5月の正式開城まで落城することはなかった。(Wikipediaより)


千歳通に残る小さな廟は、第2代牛久保城主・牧野成定の墓所です。

IMG_8406 牧野成定公廟

牧野成定は、牛久保城主・牧野 保成の後をうけて牛久保城主となり、早くから徳川方に属していました。永禄8年(1565年)家康が吉田城を攻めた際、成定は酒井忠次とともに今川方の説得につとめ、無血開城させるという武功をたて、家康の信任を得ました。

墓碑は貞享元年(1684年)に曾孫により建てられ、鞘堂は昭和50年、牧野公奉賛会の手によって建立されたものです。
(豊川市HPより)

IMG_8402 牧野成定公廟

 牧野成定公廟
 
 牧野成定(なりさだ)は、今川氏に叛(そむ)いた牛窪城主の牧野保成(やすなり)の後を継いで、弘治2年(1556年)頃に家督を継ぐことを今川氏より認められました。松平元康(後の徳川家康)の東三河侵攻に対して家臣らとともに抵抗しましたが、永禄9年(1566年)に今川方を離れ松平方に臣従しました。成定は同年に42歳で病死しましたが、その後牧野家は家康とともに関東へ移り、子の康成は上野大胡(うえのおおご=群馬県)の城主となり、孫の忠成は越後長峰(新潟県)を経て長岡に転封し、幕末に至るまで牧野家が藩主を務めました。

 成定の遺体は光輝院の境内に葬られましたが、道路が開かれたことにより寺域が縮小され、現在では廟がこの場所に取り残されたような格好となっています。廟の墓碑は大垣二代藩主戸田氏信の妻となった忠成の娘(領秀院)が、成定の菩提を弔うために貞享元年(1684年)に建てたものです。また、廟前にある石灯籠二基は、子孫の長岡九代藩主牧野忠精が寛政8年(1796年)に寄進したものです。廟の奥にある天王社は、毎年4月7,8日に近い土・日曜日に行われる牛久保の若葉祭(県指定無形民俗文化財)の神輿行列のお旅所に現在なっており、祭礼ではこの廟の前でも笹踊りが奉納されます。

  豊川市教育委員会

IMG_8402 若葉祭

牛久保八幡社の末社である天王社

IMG_8403 天王社

IMG_8404 天王社

秋葉社
IMG_8405 秋葉社

案内板
IMG_8407 案内板


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Comment

NoTitle 

おはようございます。
暖かな日が早くから続いてくれてて、
いろんな花が咲くのが早くて戸惑っています。
そんななかこのような記事拝見しますと、
車で走って観に出かけたくなったりします。
今朝もこうして牛久保城の話、勉強させていただいて、
それはそれはありがとうございました。🤩
  • posted by マーチャン 
  • URL 
  • 2023.03/17 06:21分 
  • [Edit]

NoTitle 

家康は、戦争に明け暮れた毎日だったのでしょう。
牛久保など始めて聞く名前ですがしっかりと
史跡がのこっていますね。
岡崎から静岡までお、家康の史跡に国が指定
してもいいくらいですね。

新しい史跡をありがとう。
  • posted by ラメール 
  • URL 
  • 2023.03/17 10:14分 
  • [Edit]

NoTitle 

j城下町には必ず
城下町を思わせる町名、地名がありますね。

堀之内、馬場町、大手前なんてのが
一番有名かなぁ。

応援ぽち
  • posted by よっちん 
  • URL 
  • 2023.03/17 14:13分 
  • [Edit]

こんばんは 

こんばんは。
家康は徐々に三河を固めて行ったのですね。
そして一度江戸に行かされる。
そこからさらに大きくなり日本を治めるのですね。
凄いな。
  • posted by 自転車親父 
  • URL 
  • 2023.03/17 20:56分 
  • [Edit]

NoTitle 

今はもう昔の城の名残もほとんどわからないくらいですね。
応援ぽち2.
  • posted by みかん農家 
  • URL 
  • 2023.03/17 22:33分 
  • [Edit]

皆様へ 

こんばんは😃🌃
今日もコメントありがとうございました。

お城の面影すらないところは、元の姿をイメージしにくいですよね。
城跡の石碑がポツンとあるくらいですが、戦と結びつけて覚えておきたいものです。
  • posted by しずか 
  • URL 
  • 2023.03/17 22:44分 
  • [Edit]

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