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2023.03/24 [Fri]
掛川城(1)霧吹き井戸
永禄11年(1568年)今川氏真は、甲斐の武田氏に駿河を追われ、朝比奈泰朝のいる掛川城に立てこもりました。
翌年、徳川家康は掛川城を攻めますが、泰朝の守りはかたく、なかなか落城しませんでした。
しかし、ついに和睦により氏真の身の無事を家康に認めさせる条件で、泰朝は開城を決意しました。
氏真と泰朝は1569年2月8日(永禄12年1月23日)に掛川城を開城し、小田原城へ退去。
掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入り、武田氏侵攻に対する防御の拠点となりました。
天正18年、全国統一した豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ移すと、家康の旧領地に秀吉配下の大名を配置し、掛川城には
山内一豊が入りました。一豊は城の拡張や城下の整備を行うとともに、掛川城に初めて天守閣をつくりました。
天守は、1604年(慶長9年)の大地震で倒壊し、1621年(元和7年)に再建されましたが、1854年(安政元年)旧暦11月4日の嘉永東海地震により再び倒壊。その後、天守は再建されず、天守台などの遺構が残るのみでしたが、1994年(平成6年) 市民や地元企業などから10億円の募金を集め、戦後初となる木造による天守が再建されました。
大手門










永禄12年(1569)徳川家康が今川氏真の立て籠もる掛川城を攻めた際、井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。

遠州七不思議の霧吹き井戸

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翌年、徳川家康は掛川城を攻めますが、泰朝の守りはかたく、なかなか落城しませんでした。
しかし、ついに和睦により氏真の身の無事を家康に認めさせる条件で、泰朝は開城を決意しました。
氏真と泰朝は1569年2月8日(永禄12年1月23日)に掛川城を開城し、小田原城へ退去。
掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入り、武田氏侵攻に対する防御の拠点となりました。
天正18年、全国統一した豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ移すと、家康の旧領地に秀吉配下の大名を配置し、掛川城には
山内一豊が入りました。一豊は城の拡張や城下の整備を行うとともに、掛川城に初めて天守閣をつくりました。
天守は、1604年(慶長9年)の大地震で倒壊し、1621年(元和7年)に再建されましたが、1854年(安政元年)旧暦11月4日の嘉永東海地震により再び倒壊。その後、天守は再建されず、天守台などの遺構が残るのみでしたが、1994年(平成6年) 市民や地元企業などから10億円の募金を集め、戦後初となる木造による天守が再建されました。
大手門










永禄12年(1569)徳川家康が今川氏真の立て籠もる掛川城を攻めた際、井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。

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- at 00:00
- [どうする家康:今川氏真(どうする家康)]
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NoTitle
それはとってもいいところ掛川城。
観光にはもってこいのところでしょう。
行ったこと無いところはつい行きたくなるし、
興味も湧いてくるから、こうしていろいろと、
見せて聞かせていただくとうれしくなります・・。🤩