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2023.09/10 [Sun]
督姫の母・西郡局と本興寺(1)
徳川家康の側室であった西郡局(にしのこおりのつぼね)は、三河国宝飯郡の武家・鵜殿氏の出身で、西郡の方ともいいました。
永禄5年(1562年)に上ノ郷鵜殿氏は徳川家康に攻め滅ぼされましたが、他の鵜殿氏支流は徳川氏に服しました。
西郡局は、柏原鵜殿長忠の娘という身分で徳川家康の側室となり、永禄8年(1565年)家康の次女督姫(北条氏直室、のち池田輝政室)を産みました。
湖西市鷲津にある本興寺は、永徳3年(1383)日乗上人の開山で、戦国時代には、今川方の武将であった鵜殿氏に保護されており、家康からの朱印地拝領により、十万石の格式を誇りました。
家康の側室であった西群局は、本興寺第十世日梅の姉にあたります。
境内には国指定重要文化財である本堂や西郡局の廟があり、奥書院では朱印状を運んだ朱印篭や徳川家代々の位牌、小堀遠州作と伝えられる庭園を楽しむことができます。
山号は常霊山。院号は大悲院。本尊は三宝尊。
山門は、愛知県豊橋市の吉田城から移築したもの。


山門(惣門)
もと三河国吉田城の城門であったものを、延宝2年(1674)十六世日穏の代に
吉田城より移築したもので、高麗門と言われる形式の門です。
改築される前は、上端が薄く下瑞が厚い板を段状に葺いた段葺き技法の特徴を備えた
風格のある門でたが、移築時に柿葺きに改修されました。
その後、亨保10年(1725)に硯在の本瓦葺きに改修されました。
なお、創建時の段葺き屋根の特徴は、現在も瓦葺きの下に保存されています。
300mという長い参道の両脇に塔頭が四院あります。

浜名湖辺から正面の本堂に向かう全長300メートルに及ぶ参道には、山門に続き四坊の塔頭寺院が両側に配され(江戸末期には八坊)、本堂手前右側に方丈があります。
文化14年(1817)二十九世日壇の代に山門から本堂にかけて石垣普請が行われ、天保9年(1838)三十一世日融の代に再整備されました。
平成の大修理事業の一環として、平成28年に幅員6メートル、全長140メートルにわたり
完全舗装整備を行いました。
方丈で受付を済ませ、大書院、奥書院、客殿の見学のスタートです。
大書院は、文政10年(1827)の建立で、上段之間十五畳、中之間十八畳、岸良之間十八畳からなっています。


大書院
大書院は、二十九世日壇の代の文政10年(1827)、上段・下段の間取りを持つ公式対面の場所として建立されました。
完成の記念として上段の間には、壁面七面、襖四本の両面の計十五面に、谷文晁によって「紙本水墨四季山水障壁画」が描かれ、このことから当寺は「文晁寺」とも言われてぃます。また、下段の間には岸良の「双竜争珠の図」や杉戸絵が描かれています。
(駒札より)
双竜争珠の図


奥書院
もと三河国吉田城内にあった建物で、延宝二年(一六七四)十六世日穏の代、山門とともに当山に寄進されたものです。
構造は、木遣平屋建てで、桁行八間・梁間五間の寄棟造りの茅葺きの縁側をつけた住宅風書院建築です。創建当初からのものではありませんが、使用されている材料や技法は江戸時代初期の建物様式を遺す建物です。
平成二十四年度から二十五年度に行なわれた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き型鋼板葺きに変更されました。
(駒札より)
庭園は「遠州流庭園」となっており、小堀遠州の作庭と言われています。


遠州流庭園
裏山の自然林を借景に大書院と奥書院に面して配置された庭園で、当地方の作庭に
大きな影響を残した小堀遠江守政一が関わったといわれています。
広さは約300坪に及び。池中に鶴島、亀島の二島を浮かべ、山畔には枯滝口が築かれ
その左手に三尊石、さらにその左手に須弥山石が配され、手前には礼拝石が据えられ
ています。
庭園の起源は不明ですが、永禄6年(1563)5月の今川氏真判物に「寺中園林」とある
ことから、古くから池泉があったことが想像されます。
水の音ただにひとつぞきこえける
そのほかはなにも 申すことなし
(昭和7年) 北原 白秋(駒札より)

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永禄5年(1562年)に上ノ郷鵜殿氏は徳川家康に攻め滅ぼされましたが、他の鵜殿氏支流は徳川氏に服しました。
西郡局は、柏原鵜殿長忠の娘という身分で徳川家康の側室となり、永禄8年(1565年)家康の次女督姫(北条氏直室、のち池田輝政室)を産みました。
湖西市鷲津にある本興寺は、永徳3年(1383)日乗上人の開山で、戦国時代には、今川方の武将であった鵜殿氏に保護されており、家康からの朱印地拝領により、十万石の格式を誇りました。
家康の側室であった西群局は、本興寺第十世日梅の姉にあたります。
境内には国指定重要文化財である本堂や西郡局の廟があり、奥書院では朱印状を運んだ朱印篭や徳川家代々の位牌、小堀遠州作と伝えられる庭園を楽しむことができます。
山号は常霊山。院号は大悲院。本尊は三宝尊。
山門は、愛知県豊橋市の吉田城から移築したもの。


山門(惣門)
もと三河国吉田城の城門であったものを、延宝2年(1674)十六世日穏の代に
吉田城より移築したもので、高麗門と言われる形式の門です。
改築される前は、上端が薄く下瑞が厚い板を段状に葺いた段葺き技法の特徴を備えた
風格のある門でたが、移築時に柿葺きに改修されました。
その後、亨保10年(1725)に硯在の本瓦葺きに改修されました。
なお、創建時の段葺き屋根の特徴は、現在も瓦葺きの下に保存されています。
300mという長い参道の両脇に塔頭が四院あります。

浜名湖辺から正面の本堂に向かう全長300メートルに及ぶ参道には、山門に続き四坊の塔頭寺院が両側に配され(江戸末期には八坊)、本堂手前右側に方丈があります。
文化14年(1817)二十九世日壇の代に山門から本堂にかけて石垣普請が行われ、天保9年(1838)三十一世日融の代に再整備されました。
平成の大修理事業の一環として、平成28年に幅員6メートル、全長140メートルにわたり
完全舗装整備を行いました。
方丈で受付を済ませ、大書院、奥書院、客殿の見学のスタートです。
大書院は、文政10年(1827)の建立で、上段之間十五畳、中之間十八畳、岸良之間十八畳からなっています。


大書院
大書院は、二十九世日壇の代の文政10年(1827)、上段・下段の間取りを持つ公式対面の場所として建立されました。
完成の記念として上段の間には、壁面七面、襖四本の両面の計十五面に、谷文晁によって「紙本水墨四季山水障壁画」が描かれ、このことから当寺は「文晁寺」とも言われてぃます。また、下段の間には岸良の「双竜争珠の図」や杉戸絵が描かれています。
(駒札より)
双竜争珠の図


奥書院
もと三河国吉田城内にあった建物で、延宝二年(一六七四)十六世日穏の代、山門とともに当山に寄進されたものです。
構造は、木遣平屋建てで、桁行八間・梁間五間の寄棟造りの茅葺きの縁側をつけた住宅風書院建築です。創建当初からのものではありませんが、使用されている材料や技法は江戸時代初期の建物様式を遺す建物です。
平成二十四年度から二十五年度に行なわれた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き型鋼板葺きに変更されました。
(駒札より)
庭園は「遠州流庭園」となっており、小堀遠州の作庭と言われています。


遠州流庭園
裏山の自然林を借景に大書院と奥書院に面して配置された庭園で、当地方の作庭に
大きな影響を残した小堀遠江守政一が関わったといわれています。
広さは約300坪に及び。池中に鶴島、亀島の二島を浮かべ、山畔には枯滝口が築かれ
その左手に三尊石、さらにその左手に須弥山石が配され、手前には礼拝石が据えられ
ています。
庭園の起源は不明ですが、永禄6年(1563)5月の今川氏真判物に「寺中園林」とある
ことから、古くから池泉があったことが想像されます。
水の音ただにひとつぞきこえける
そのほかはなにも 申すことなし
(昭和7年) 北原 白秋(駒札より)

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NoTitle
琵琶湖の湖西にある滋賀県の市かと思ってしまうのですが
浜名湖の湖西なんですよねぇ。
ちなみにJRの湖西線は滋賀県を通っております。
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