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2023.03/23 [Thu]
掛川古城と龍華院
掛川城より東に500mほどのところにあった掛川古城は、山内一豐が現在の位置に掛川城を築城する以前、戦国時代の明応6年から文亀元年の間に、今川氏が遠江支配の拠点として重臣・朝比奈泰煕に築かせたと言われています。
その後、遠江における今川氏の勢力拡大に伴い、掛川古城では手狭となり、永正9年から10年頃に現在の地に掛川城が築かれました。
龍華院は、掛川古城があったところで、東側には空堀が残っています。
1568年、掛川城に逃げ込んだ今川氏真を攻めるため、徳川家康は大軍を率いて掛川城を攻めましたが、その際子角山に掛川城攻略の本陣を置いたという説があります。




掛川城と子角山
掛川城は今川氏の重臣であった朝比奈泰煕により1500年ごろ子角山(ねずみやま)の地に築城されました(掛川古城)。
その後、1513年には龍頭山(りゅうとうざん)(現在の掛川城公園)に新たに築城されたため、子角山には建物が残っていませんが、本曲輪は現在の龍華院大猷院霊屋(りゅうげいんたいゆういんおたまや)の位置にあったとされ、霊屋東側に残る大堀切(空堀)の跡に往時の面影が残っています。
戦国時代の1568年、掛川城に逃げ込んだ今川氏真を攻めるため、徳川家康は大軍を率いて掛川城を攻めましたが、その際子角山に掛川城攻略の本陣を置いたという説があります。
子角山は龍華院大猷院霊屋の西側にある尾根と小学校沿いに整備された遊歩道の先にある東側の尾根によって構成されており、現在では龍華院子角山公園(りゅうげいんねずみやまこうえん)として、両側の尾根を一体的に整備しています。(駒札より)
古城跡から見た掛川の街

境内には、徳川家光を祀るお霊屋があります。

明暦2年(1656年)、嗣子のない掛川城主・北条氏重が三代将軍家光の霊を祀り、家の存続を願ったといわれる三間四方の方型造りの霊廟です。文政5年(1822年)に掛川城主太田資始により再建され、現在、県の有形文化財に指定されています。


龍華院大猷院霊屋
この霊屋は、明暦二年(1656)掛川藩主北条氏重が幕府に願い出て、徳川三代将軍家光(諡号大猷院)の霊牌を祀るために建てたものである。
当時の建物は、文化十五年(1818)三月火災により失われ、文政五年(1822)当時の藩主太田資始により再建された。現在屋根は瓦葺であるが、再建時は柿葺であった。内部には春日厨子があり、霊牌を祀る。昭和二十九年(1954)一月三十日、春日厨子を含め、静岡県文化財に指定された。
霊屋は嗣子のない氏重が断絶の打開策として建立したといわれるが、万治元年(1658)十月、氏重の死去に伴い、家は断絶、領地は没収しなった。
霊屋が建つ地には、戦国時代の明応六年(1497)から文亀元年(1501)ごろ駿河の守護大名今川氏親が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰熙に命じて築かせた掛川古城の本曲輪があった。
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その後、遠江における今川氏の勢力拡大に伴い、掛川古城では手狭となり、永正9年から10年頃に現在の地に掛川城が築かれました。
龍華院は、掛川古城があったところで、東側には空堀が残っています。
1568年、掛川城に逃げ込んだ今川氏真を攻めるため、徳川家康は大軍を率いて掛川城を攻めましたが、その際子角山に掛川城攻略の本陣を置いたという説があります。




掛川城と子角山
掛川城は今川氏の重臣であった朝比奈泰煕により1500年ごろ子角山(ねずみやま)の地に築城されました(掛川古城)。
その後、1513年には龍頭山(りゅうとうざん)(現在の掛川城公園)に新たに築城されたため、子角山には建物が残っていませんが、本曲輪は現在の龍華院大猷院霊屋(りゅうげいんたいゆういんおたまや)の位置にあったとされ、霊屋東側に残る大堀切(空堀)の跡に往時の面影が残っています。
戦国時代の1568年、掛川城に逃げ込んだ今川氏真を攻めるため、徳川家康は大軍を率いて掛川城を攻めましたが、その際子角山に掛川城攻略の本陣を置いたという説があります。
子角山は龍華院大猷院霊屋の西側にある尾根と小学校沿いに整備された遊歩道の先にある東側の尾根によって構成されており、現在では龍華院子角山公園(りゅうげいんねずみやまこうえん)として、両側の尾根を一体的に整備しています。(駒札より)
古城跡から見た掛川の街

境内には、徳川家光を祀るお霊屋があります。

明暦2年(1656年)、嗣子のない掛川城主・北条氏重が三代将軍家光の霊を祀り、家の存続を願ったといわれる三間四方の方型造りの霊廟です。文政5年(1822年)に掛川城主太田資始により再建され、現在、県の有形文化財に指定されています。


龍華院大猷院霊屋
この霊屋は、明暦二年(1656)掛川藩主北条氏重が幕府に願い出て、徳川三代将軍家光(諡号大猷院)の霊牌を祀るために建てたものである。
当時の建物は、文化十五年(1818)三月火災により失われ、文政五年(1822)当時の藩主太田資始により再建された。現在屋根は瓦葺であるが、再建時は柿葺であった。内部には春日厨子があり、霊牌を祀る。昭和二十九年(1954)一月三十日、春日厨子を含め、静岡県文化財に指定された。
霊屋は嗣子のない氏重が断絶の打開策として建立したといわれるが、万治元年(1658)十月、氏重の死去に伴い、家は断絶、領地は没収しなった。
霊屋が建つ地には、戦国時代の明応六年(1497)から文亀元年(1501)ごろ駿河の守護大名今川氏親が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰熙に命じて築かせた掛川古城の本曲輪があった。
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- [どうする家康:徳川家康(どうする家康)]
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NoTitle
ここはまた知らないところです。
掛川城の城跡なんですね。
そんな雰囲気がまたあるところだし、
なにしろ高台ですからまさにそんな感じがするところ。
もっとしっかりと記事読ませていただいて、
家光さんのことも勉強しないといけませんね。
いつもありがとうございます。