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2023.05/28 [Sun]
諏訪原城跡
諏訪原城(すわはらじょう)は、遠江国榛原郡金谷(現在の静岡県島田市金谷)の標高212mから220mの台地にあった戦国時代の山城です。
天正元年(1573)、武田勝頼は、遠江侵攻の拠点とするため、家臣の馬場美濃守信春に命じて、牧ノ原台地に築城しました。
城内に諏訪大明神を祀ったことから諏訪原城と名が付いたと言われています。
駿遠の国境に位置し、掛川の高天神城攻略の陣城として、攻略後は兵站基地としての役割を担いました。
天正3年(1575)、この城をめぐって武田氏と徳川氏で激しい戦いが繰り広げられ、同年8月に徳川家康によって攻め落とされ落城。この時、家康は周の武王が殷の紂王(ちゅうおう)を破った牧野(ぼくや)の戦いの故事にちなみ、牧野城と改名。
天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると、牧野城の必要性がなくなり、天正18年(1590)に廃城となりました。
明治維新後、の徳川慶喜が駿府に配されると、慶喜に従って駿府に移住した旧幕臣が、荒廃していた牧野城周辺に移住して開墾を行い、一帯を茶畑としたため、現在も城跡一帯は茶畑になっています。
現在は建築物は残っていませんが、三日月堀・曲輪・馬出などの遺構がはっきりと残り、国の史跡に指定されています。

国指定史跡 諏訪原城跡
指定年月日
昭和50年11月25日
追加指定
平成14年12月19日
諏訪原城は、武田勝頼・徳川家康時代の堀、丸馬出が良好な形で現存し、戦国時代史の過程を理解する上で重要な遺跡として国の史跡に指定されています。 当城は、天正元年(1573)、武田勝頼が、普請奉行馬場美濃守信房(ばばみののかみのぶふさ)(信春)、その補佐を武田信豊に命じ築いたと『甲陽軍鑑』等に記されています。城内に諏訪大明神を祀ったことから、『諏訪原城』の名がついたと言われています。 天正3年(1575)に、徳川家康によって攻め落とされたのち『牧野城(牧野原城)』と改名され、武田方となった高天神城(掛川市)を攻略するための城として活用されました。牧野城には、今川氏真や松平家忠らが在城し、『家忠日記』には、堀普請(堀を造る土木工事)や塀普請などの度重なる改修が行われたことが記されています。 天正9年(1581)に、高天神城が落城し、翌年、武田氏が滅亡するとこの城の必要性は無くなりました。その後、徳川家康が関東に移ったことから、天正18年(1590)頃廃城になったと考えられています。

大手南外堀



諏訪原城跡の碑



惣曲輪


番小屋

三日月堀と二の曲輪中馬出

三日月堀

二の曲輪中馬出

武田流築城術の特徴と言われている丸馬出

.ニの曲輪中馬出から北馬出へ


二の曲輪北馬出


二の曲輪北馬出の門・薬医門

発掘調査で確認された門の礎石から復元されました。
外堀


堀切



二の曲輪


二の曲輪の中央部分には、仕切土塁が残っています。
本曲輪

富士山、大井川を望む高台にあります。


本曲輪(ほんくるわ)東側の斜面は断崖絶壁となっており、当時の大井川は牧之原台地に沿って流れていたことから自然地形によって守られた「後ろ堅固の城(うしろけんごのしろ)」となっています。


内堀の堀底にはカンカン井戸とよばれる井戸があります。


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天正元年(1573)、武田勝頼は、遠江侵攻の拠点とするため、家臣の馬場美濃守信春に命じて、牧ノ原台地に築城しました。
城内に諏訪大明神を祀ったことから諏訪原城と名が付いたと言われています。
駿遠の国境に位置し、掛川の高天神城攻略の陣城として、攻略後は兵站基地としての役割を担いました。
天正3年(1575)、この城をめぐって武田氏と徳川氏で激しい戦いが繰り広げられ、同年8月に徳川家康によって攻め落とされ落城。この時、家康は周の武王が殷の紂王(ちゅうおう)を破った牧野(ぼくや)の戦いの故事にちなみ、牧野城と改名。
天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると、牧野城の必要性がなくなり、天正18年(1590)に廃城となりました。
明治維新後、の徳川慶喜が駿府に配されると、慶喜に従って駿府に移住した旧幕臣が、荒廃していた牧野城周辺に移住して開墾を行い、一帯を茶畑としたため、現在も城跡一帯は茶畑になっています。
現在は建築物は残っていませんが、三日月堀・曲輪・馬出などの遺構がはっきりと残り、国の史跡に指定されています。

国指定史跡 諏訪原城跡
指定年月日
昭和50年11月25日
追加指定
平成14年12月19日
諏訪原城は、武田勝頼・徳川家康時代の堀、丸馬出が良好な形で現存し、戦国時代史の過程を理解する上で重要な遺跡として国の史跡に指定されています。 当城は、天正元年(1573)、武田勝頼が、普請奉行馬場美濃守信房(ばばみののかみのぶふさ)(信春)、その補佐を武田信豊に命じ築いたと『甲陽軍鑑』等に記されています。城内に諏訪大明神を祀ったことから、『諏訪原城』の名がついたと言われています。 天正3年(1575)に、徳川家康によって攻め落とされたのち『牧野城(牧野原城)』と改名され、武田方となった高天神城(掛川市)を攻略するための城として活用されました。牧野城には、今川氏真や松平家忠らが在城し、『家忠日記』には、堀普請(堀を造る土木工事)や塀普請などの度重なる改修が行われたことが記されています。 天正9年(1581)に、高天神城が落城し、翌年、武田氏が滅亡するとこの城の必要性は無くなりました。その後、徳川家康が関東に移ったことから、天正18年(1590)頃廃城になったと考えられています。

大手南外堀



諏訪原城跡の碑



惣曲輪


番小屋

三日月堀と二の曲輪中馬出

三日月堀

二の曲輪中馬出

武田流築城術の特徴と言われている丸馬出

.ニの曲輪中馬出から北馬出へ


二の曲輪北馬出


二の曲輪北馬出の門・薬医門

発掘調査で確認された門の礎石から復元されました。
外堀


堀切



二の曲輪


二の曲輪の中央部分には、仕切土塁が残っています。
本曲輪

富士山、大井川を望む高台にあります。


本曲輪(ほんくるわ)東側の斜面は断崖絶壁となっており、当時の大井川は牧之原台地に沿って流れていたことから自然地形によって守られた「後ろ堅固の城(うしろけんごのしろ)」となっています。


内堀の堀底にはカンカン井戸とよばれる井戸があります。


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