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2023.03/20 [Mon]
浜松まつりとおんな城主
浜松まつりは、子どもの誕生を祝い、健やかな子の成長を願う祭りです。
この祭りは、引間城主であった飯尾連龍とお田鶴方の嫡男の誕生を祝って大凧を揚げたことが起源との説があります。
※3月19日の紀行で、元城町東照宮と椿姫観音が紹介されましたので、再編集してあります。

お田鶴の方がおんな城主直虎として守り戦った引間城跡には、徳川家康を祀る元城町東照宮があります。
浜松城公園駐車場の向かいにあるペットと一緒に楽しめるドッグレストラン&ドッグラン「ドッグルハウス」から、元城町東照宮に曲がる角には、

引間城跡の碑があり、


角を曲がったところには、家康公ご住居跡の案内板があります。

この右横に、元城町東照宮の御城印所があり、家康公と椿姫バージョンの御城印を授与できます。

こちらは、椿姫バージョンの御城印です。

元城町東照宮

明治19年旧幕臣・井上延陵の発起により創建されました。
石の鳥居の横には「曳馬城跡」(引馬城址)と書かれた石碑があります。


引間城本丸跡
鎌倉時代の浜松は、「ひきま(ひくま)」と呼ばれる町でした。現在の馬込(まごめ)川が天竜川の本流にあたり、西岸に町屋が発達しました。「船越」や「早馬(はやうま)」はこの頃の地名です。
戦国時代、この町を見下ろす丘の上に引間城が築かれます。歴代の城主には、尾張の斯波方の巨海氏・大河内氏、駿河の今川方の飯尾氏などがおり、斯波氏と今川氏の抗争の中で、戦略上の拠点となっていきました。この時代の浜松には、同じ今川方で、少年時代の豊臣秀吉が初めて仕えた松下加兵衞(頭陀寺城城主)がいました。松下氏に連れられて、秀吉は引間城を訪れています。 徳川家康が最初に居城としたのもこの城です。元亀3年12月(1573)、武田信玄との三方ヶ原の戦いに、家康は「浜松から撤退するくらいなら武士をやめる」という強い覚悟で臨みましたが、引間城の北口にあたる「玄黙(玄目)口」へ撤退したと言われています。このころまで引間城が重要な拠点だったことがわかります。
その後、城主となった豊臣系の堀尾吉晴以降、浜松城の増改築が進むにつれ、引間城は城の主要部から外れ、「古城」と呼ばれて米蔵などに使われていました。明治19年、旧幕臣・井上延陵が本丸跡に家康を祭神とする元城町東照宮を勧請し、境内となっています。
平成27年1月 監修:静岡文化芸術大学 磯田道史教授


お田鶴の方が200有余の城兵と共にたてこもり、家康は家臣の後藤、松下の両人を派遣して城を明け渡すよう説得しましたが、お田鶴の方がが応じなかったため、止むを得ず攻撃を行うことに。
緋縅の鎧を身につけ、白柄の長刀を振うお田鶴の方、白鉢巻きにたすき掛け、刃を手にした18人の侍女の壮絶な戦いが繰り広げられ、力尽きたお田鶴の方は侍女18名と共についに討死して果てました。
元城町東照宮のある場所は曲輪跡で、周囲の坂になっている道が空堀跡と考えられています。


元城町東照宮から徒歩圏内に椿姫観音があります。

お田鶴の方は、家康の正室・築山御前とは母親同士が義理の姉妹という関係にあります。
城を最後まで死守したことに感動した家康は、お田鶴の方と侍女18人の遺骸を厚く葬り塚を築き、彼女の死を哀れに思った築山御前は、討ち死にした場所に百余株の椿植えました。すると数日後に椿が微笑むようにぱっと咲きほころんだと伝えられています。
御堂は1944(昭和19)年に建立されましたが、浜松大空襲で焼け落ち、1952(昭和27)年に再建。
近年では御堂に観音様を祭り、椿姫観音として毎年11月23日に追悼供養が行われています。
(家康の散歩道パンフレット参照)


椿姫観音像

おんな城主直虎が放送された年の浜松まつりに、井伊直虎の幼少期のおとわ役を演じた新井美羽ちゃんが、参加してくれました!
朝は、中田島砂丘で行われた凧揚げ会場に登場!


家康くんと直虎ちゃんに挟まれて、手を振る美羽ちゃん


浜松市長とも記念撮影





今年は直虎凧が作られました!

美羽ちゃんも直虎凧を揚げるお手伝いをしていました。

激かわ!



今では立派な女優さんに成長されました。
他にはこんな凧もありました。



そして祭り犬?

どこかの町の組長らしいです(^_^;
そして、今年の浜松まつりには、殿の松潤参加の騎馬武者行列が行われるとのビッグニュースが発表されました!
どうする浜松 (o‘∀‘o)*:◦♪
どうする浜松まつり ヽ(≧∀≦)ノ
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この祭りは、引間城主であった飯尾連龍とお田鶴方の嫡男の誕生を祝って大凧を揚げたことが起源との説があります。
※3月19日の紀行で、元城町東照宮と椿姫観音が紹介されましたので、再編集してあります。

お田鶴の方がおんな城主直虎として守り戦った引間城跡には、徳川家康を祀る元城町東照宮があります。
浜松城公園駐車場の向かいにあるペットと一緒に楽しめるドッグレストラン&ドッグラン「ドッグルハウス」から、元城町東照宮に曲がる角には、

引間城跡の碑があり、


角を曲がったところには、家康公ご住居跡の案内板があります。

この右横に、元城町東照宮の御城印所があり、家康公と椿姫バージョンの御城印を授与できます。

こちらは、椿姫バージョンの御城印です。

元城町東照宮

明治19年旧幕臣・井上延陵の発起により創建されました。
石の鳥居の横には「曳馬城跡」(引馬城址)と書かれた石碑があります。


引間城本丸跡
鎌倉時代の浜松は、「ひきま(ひくま)」と呼ばれる町でした。現在の馬込(まごめ)川が天竜川の本流にあたり、西岸に町屋が発達しました。「船越」や「早馬(はやうま)」はこの頃の地名です。
戦国時代、この町を見下ろす丘の上に引間城が築かれます。歴代の城主には、尾張の斯波方の巨海氏・大河内氏、駿河の今川方の飯尾氏などがおり、斯波氏と今川氏の抗争の中で、戦略上の拠点となっていきました。この時代の浜松には、同じ今川方で、少年時代の豊臣秀吉が初めて仕えた松下加兵衞(頭陀寺城城主)がいました。松下氏に連れられて、秀吉は引間城を訪れています。 徳川家康が最初に居城としたのもこの城です。元亀3年12月(1573)、武田信玄との三方ヶ原の戦いに、家康は「浜松から撤退するくらいなら武士をやめる」という強い覚悟で臨みましたが、引間城の北口にあたる「玄黙(玄目)口」へ撤退したと言われています。このころまで引間城が重要な拠点だったことがわかります。
その後、城主となった豊臣系の堀尾吉晴以降、浜松城の増改築が進むにつれ、引間城は城の主要部から外れ、「古城」と呼ばれて米蔵などに使われていました。明治19年、旧幕臣・井上延陵が本丸跡に家康を祭神とする元城町東照宮を勧請し、境内となっています。
平成27年1月 監修:静岡文化芸術大学 磯田道史教授


お田鶴の方が200有余の城兵と共にたてこもり、家康は家臣の後藤、松下の両人を派遣して城を明け渡すよう説得しましたが、お田鶴の方がが応じなかったため、止むを得ず攻撃を行うことに。
緋縅の鎧を身につけ、白柄の長刀を振うお田鶴の方、白鉢巻きにたすき掛け、刃を手にした18人の侍女の壮絶な戦いが繰り広げられ、力尽きたお田鶴の方は侍女18名と共についに討死して果てました。
元城町東照宮のある場所は曲輪跡で、周囲の坂になっている道が空堀跡と考えられています。


元城町東照宮から徒歩圏内に椿姫観音があります。

お田鶴の方は、家康の正室・築山御前とは母親同士が義理の姉妹という関係にあります。
城を最後まで死守したことに感動した家康は、お田鶴の方と侍女18人の遺骸を厚く葬り塚を築き、彼女の死を哀れに思った築山御前は、討ち死にした場所に百余株の椿植えました。すると数日後に椿が微笑むようにぱっと咲きほころんだと伝えられています。
御堂は1944(昭和19)年に建立されましたが、浜松大空襲で焼け落ち、1952(昭和27)年に再建。
近年では御堂に観音様を祭り、椿姫観音として毎年11月23日に追悼供養が行われています。
(家康の散歩道パンフレット参照)


椿姫観音像

おんな城主直虎が放送された年の浜松まつりに、井伊直虎の幼少期のおとわ役を演じた新井美羽ちゃんが、参加してくれました!
朝は、中田島砂丘で行われた凧揚げ会場に登場!


家康くんと直虎ちゃんに挟まれて、手を振る美羽ちゃん


浜松市長とも記念撮影





今年は直虎凧が作られました!

美羽ちゃんも直虎凧を揚げるお手伝いをしていました。

激かわ!



今では立派な女優さんに成長されました。
他にはこんな凧もありました。



そして祭り犬?

どこかの町の組長らしいです(^_^;
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