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2023.04/13 [Thu]
虎御前山城
越前の朝倉義景討伐の軍を率いた織田信長が、敦賀に入って朝倉氏一族が守る金ケ崎城を落とし、越前に攻め入ろうとした時、近江の浅井長政が離反して、織田軍の背後を襲い、一転、挟撃を受ける危機に見舞われました。
そこで信長は、木下藤吉郎(豊臣秀吉)らに殿(しんがり)を任せ、朽木(くつき)を経由して京に退却(金ヶ崎の退き口)
6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙
京都に帰還した信長は軍を立て直すため、岐阜に向けて出発。
6月19日、信長は浅井氏を討つべく、岐阜を出立しその日のうちに長比城に入り、6月21日、信長は虎御前山に布陣すると、森可成、坂井政尚、斎藤利治、柴田勝家、佐久間信盛、蜂屋頼隆、木下秀吉、丹羽長秀らに命じて、小谷城の城下町を広範囲に渡って焼き払わせました。
小谷城跡から虎御前山城へ。

虎御前山は、古くは長尾(ながお)山と呼ばれ、全山に樹林が茂り、周囲は急傾斜で自然の要砦を形作っています。
信長が小谷城の浅井長政を攻めた際、最前線として虎御前山城を築き、柴田勝家の陣が置かれました。
柴田勝家

信長は、3回にわたって砦を築かせていますが、砦は小谷城落城の後、すぐに壊されました。
昔、井筒(いつづ)という泉のほとりに住んでいた娘が、旅の途中に知り合った、世々聞(せせらぎ)という名の若者と愛し合うようになり結婚しました。ところが、顔は人間だが体は蛇という子を一度に15人も産んでしまい、嘆き悲しんだ末に、淵に身を投げて死んでしまったといいます。娘の名を虎姫(とらひめ)といい、この山が虎御前山あるいは虎姫山と呼ばれるようになった由来と伝えられています。(滋賀・びわ湖観光情報サイトより)

虎御前山城
長浜市中野町から湖北町河毛・別所につらなる虎御前山の標高220メートルを最高点とする丘陵上に存在する。この城は浅井氏の小谷城を攻めるため、元亀3年(1572)織田信長が築城した付城(陣城)である。『信長公記』では「当山の景気興ある仕立、おぶただしき御要害見聞に及ばざるの由を以て、各々耳目驚かされ候」と、その景色のよさと普請の頑強さを褒めたたえている。
本城は翌年9月1日に小谷城が陥落するまで、信長の浅井氏攻めの最前線として使用された。南から多賀貞能・蜂屋頼隆・丹羽長秀・滝川一益・堀秀政・織田信長・木下秀吉・柴田勝家の陣跡など続くが、丹羽陣跡以南は県営のキャンプ場の跡地になっており、その造成により破壊が甚だしい。しかし、滝川陣跡以北は、比較的良好に縄張が残っている。
山頂に当たる信長陣跡には、南側に外枡形が見られ、秀吉陣跡は堀切・土塁て、段々上の削平面がよく残っている。この秀吉陣跡は、小谷城清水谷との最短地点で、浅井氏攻めの最先鋒であった秀吉の陣所としては納得のいくものである。当地から、小谷城清水谷との距離感を確認することで、小谷城攻めの緊迫感を追体験できる。
清水谷絵図

虎御前山城縄張図

この時点で、既に16時をまわっていたため、登城口の雰囲気だけ味わって、急いで駅にレンタサイクルを返しに向かいました。
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そこで信長は、木下藤吉郎(豊臣秀吉)らに殿(しんがり)を任せ、朽木(くつき)を経由して京に退却(金ヶ崎の退き口)
6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙
京都に帰還した信長は軍を立て直すため、岐阜に向けて出発。
6月19日、信長は浅井氏を討つべく、岐阜を出立しその日のうちに長比城に入り、6月21日、信長は虎御前山に布陣すると、森可成、坂井政尚、斎藤利治、柴田勝家、佐久間信盛、蜂屋頼隆、木下秀吉、丹羽長秀らに命じて、小谷城の城下町を広範囲に渡って焼き払わせました。
小谷城跡から虎御前山城へ。

虎御前山は、古くは長尾(ながお)山と呼ばれ、全山に樹林が茂り、周囲は急傾斜で自然の要砦を形作っています。
信長が小谷城の浅井長政を攻めた際、最前線として虎御前山城を築き、柴田勝家の陣が置かれました。
柴田勝家

信長は、3回にわたって砦を築かせていますが、砦は小谷城落城の後、すぐに壊されました。
昔、井筒(いつづ)という泉のほとりに住んでいた娘が、旅の途中に知り合った、世々聞(せせらぎ)という名の若者と愛し合うようになり結婚しました。ところが、顔は人間だが体は蛇という子を一度に15人も産んでしまい、嘆き悲しんだ末に、淵に身を投げて死んでしまったといいます。娘の名を虎姫(とらひめ)といい、この山が虎御前山あるいは虎姫山と呼ばれるようになった由来と伝えられています。(滋賀・びわ湖観光情報サイトより)

虎御前山城
長浜市中野町から湖北町河毛・別所につらなる虎御前山の標高220メートルを最高点とする丘陵上に存在する。この城は浅井氏の小谷城を攻めるため、元亀3年(1572)織田信長が築城した付城(陣城)である。『信長公記』では「当山の景気興ある仕立、おぶただしき御要害見聞に及ばざるの由を以て、各々耳目驚かされ候」と、その景色のよさと普請の頑強さを褒めたたえている。
本城は翌年9月1日に小谷城が陥落するまで、信長の浅井氏攻めの最前線として使用された。南から多賀貞能・蜂屋頼隆・丹羽長秀・滝川一益・堀秀政・織田信長・木下秀吉・柴田勝家の陣跡など続くが、丹羽陣跡以南は県営のキャンプ場の跡地になっており、その造成により破壊が甚だしい。しかし、滝川陣跡以北は、比較的良好に縄張が残っている。
山頂に当たる信長陣跡には、南側に外枡形が見られ、秀吉陣跡は堀切・土塁て、段々上の削平面がよく残っている。この秀吉陣跡は、小谷城清水谷との最短地点で、浅井氏攻めの最先鋒であった秀吉の陣所としては納得のいくものである。当地から、小谷城清水谷との距離感を確認することで、小谷城攻めの緊迫感を追体験できる。
清水谷絵図

虎御前山城縄張図

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- [どうする家康:柴田勝家(どうする家康)]
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NoTitle
何かとたいへん迷惑をかけているよですから、
それはもうあしからずでしょう、お許しください。
浅井長政が出てくると物語は、
それはまたややこしくなったりしたりして、
はたして忠実にドラマも、
これからの大河も招かれていくのでしょうか。
そのへんのところが気になります。
きょうのこの記事にはまた感銘いたしました・・。
いつもありがとうございます。🤩