Entries
2023.04/30 [Sun]
浜松城(4)天守曲輪
続いては、浜松城の天守曲輪の紹介です。
天守周辺は天守曲輪と呼ばれ、本丸から独立した曲輪となっており、東に大手として天守門、西に搦手として埋門が配されています。
16世紀末に築かれた天守台が残されているほか、昭和33年に復興天守が建設され、2014年に天守門と共に付近の土塀が復元されました。
浜松城跡

浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570)6月に入城し、十七年間在城した。
東西600m、南北650mの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三之丸、二之丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。
ここは、その天守曲輪の跡である。
家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在城中に老中まで栄進した人が多い。
中でも水野越前守忠邦の名はよく知られている。
石垣は、野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されている。
天守曲輪


浜松城の天守台周辺には、本丸とは別に天守曲輪と呼ばれる区画が築かれている。
この天守曲輪の出入口として東に大手である天守門、西に搦手の埋門を配置している。
浜松城の天守曲輪は東西56m、南北68mで、石垣の折れ曲がる角度が様々で、複雑な多角形をしている点が特徴である。
これは自然の山の形を反映した結果と考えられ、石垣造りの曲輪としては古相を留めた形といえる。
また、曲輪の外周には土塁が巡らされていたと考えられる。
天守曲輪は掛川城、和歌山城等にも見られるが、類例は決して多くない。
掛川城は浜松城第二代城主堀尾吉晴の同輩である山内一豊が、和歌山城は豊臣秀長がそれぞれ築いており、豊臣秀吉と深く関わる遺構といえる。

ベンチもあり、くつろげるようになっています。
天守曲輪の石塁と土塀


2018年に浜松城の天守曲輪の発掘調査で、天守曲輪南側の土中から石垣が発見された。
この石垣は、その制作技法から、堀尾氏が在城していた頃(1590-1600)に作られたと推定される。
発見された石垣は、失われた上部を含めると3.2mの高さになる。
17世紀の絵図には、この石垣が高さ1m程度で描かれている。
このことから、建築当初の天守曲輪の地面は今より低く、17世紀の早い時期に2mほどが埋め立てられたと推定できる。
17世紀の絵図には、この石垣に加え、板葺きの土塀も描かれている。
19世紀の絵図では、この土塀は瓦葺きで表現されている。
これまでの発掘調査により、この土塀の瓦は、他の瓦と異なるため、土塀専用に制作されたものと推定される。
このことから、時代の経過とともに、土塀の構造も発展していったことがわかる。
天守曲輪の石垣の特徴~邪と屏風折~
天守曲輪に残る石垣は、斜面上半部だけに石を積んだ「鉢巻石垣」に分類できる。
石垣の平面形には屏風折や出隅、入隅が随所に見られる。
こうした複雑な形状は、戦闘時に迫る敵に側面から攻撃を加えるための工夫である。
邪は輪取りともいい、天守曲輪西側の埋門南側で観察できるが、国内の現存例は多くない。
さらに南に行くと、一旦鎬隅になった後に屏風折がある。
いずれも横矢掛という防御の技法で天守曲輪からの死角をなくすことができ、防御機能が高くなる。
天守曲輪南東側には出隅があり、このような部分が大規模になると櫓が建てられる。
一方、本丸北西隅には入隅があり、入隅は多くの城郭で見ることができる。
新たに発見された櫓跡

2018年に浜松城の天守曲輪で発掘調査を行った。
発掘調査の結果、天守曲輪南東角は石塁幅が広く、また、階段がつながっていたことがわかった。
また、この近辺には、大量の瓦が廃棄されていることもわかった。
発見された瓦の制作方法や文様などから、この瓦は堀尾氏が在城していた時代(1590-1600)に作られたと推定される。
このことから、1600年頃の天守曲輪南東角には、瓦葺きの建物として櫓があった可能性が高い。
しかし、その後描かれた17世紀の絵図には、その場所に櫓は存在していない。
このことから、この櫓は、17世紀の早い時期に取り壊されたと推定される。
徳川政権(1603-)が始まった初期に、豊臣政権の重臣だった堀尾氏の建物が取り壊されたということは、時代の変化を表す象徴的な出来事であった。
天守台

天守台には、ハート形をした石があり、その石探しが浜松城を訪れたカップル
に人気を呼んでいます。

わかりますか?

浜松城の天守台は、一辺21mのややいびつな四角形をしていて、西側に八幡台と呼ばれる突出部が付いている。
また東側には、付櫓と呼ばれる張り出し部分があり、現在は復興天守閣への入口として利用されている。
浜松城の天守は第二代城主堀尾吉晴の在城期(1590年頃)に築かれた説が有力だが、17世紀の絵図には天守が描かれていない事から、江戸時代前期には天守が失われていたと考えられる。
昭和33年に作られた現在の復興天守閣は、天守台の大きさと比べると小さいものである。
かつての浜松城は、築城時期などから大きな屋根を持つ下層部の上に小さな望楼が載せられる「望楼型」であった説が有力である。
その規模は天守台の大きさから推測すると現在よりも一回り大きい四重五階で、巨大な天守だったと考えられる。
模擬天守

昭和33年(1958年)4月26日に完成した鉄筋コンクリート造の復興天守は、地上3階地下1階建で、1-2階は徳川家康と浜松にまつわる歴史資料を展示する資料館、3階は展望台として使用されています。

井戸


この井戸は、銀明水と呼ばれていたという。
浜松城には、天守台に一つ、天守曲輪の埋門のそばに一つ、本丸に一つ、二の丸に三つ、作左曲輪に四つ、計十本の井戸があったという。
天守台の井戸は、再建の時に残し、今は天守閣の地下室にある。
直径一・三m、深さは現在一mほどになっており水はない。
八幡台

天守台の北西にある石垣で、天守台よりも高くなっています。

ここは天守台の北西にあたり、五段の石段により天守台より高い。面積はおよそ四十m2(十二坪)あり、浜松城のなかで最も高い所(四十一・九m)である。
城を守る神社(たぶん八幡大菩薩)をおまつりした所だといわれる。
八幡大菩薩は武士の守り神として信仰された。

搦手筋と埋門


この看板がある通路は搦手筋と言う。浜松城の天守曲輪には、2つの城内通路がある。
一つは天守門を通る大手筋(表の道)、もう一つは埋門を通る搦手筋(裏の道)である。
大手筋は、一般的に城主や客人用の通路として使われていたため、大手筋の門は立派な造りとなることが多い。
一方で、搦手筋は、日常管理や有事の際の脱出経路として使われていたため、搦手筋の門は小型で目立たない造りとなることが多い。
この坂の上の石垣が途切れた部分には、埋門が作られていた。
埋門とは、石垣の間に埋まるような構造をした門のことである。
門の幅は石垣の切れ間の幅から、約4mほどであったと推定される。
この絵図からは、天守曲輪の外周部を巡る土塀が、埋門の上部でも連続して覆われている様子がわかる。
(解説文:浜松市HPより)
にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。
応援よろしくお願いします!

にほんブログ村
歴女日記ブログランキングに参加しています。
ご協力お願いしますm(__)m

歴女日記ランキング
天守周辺は天守曲輪と呼ばれ、本丸から独立した曲輪となっており、東に大手として天守門、西に搦手として埋門が配されています。
16世紀末に築かれた天守台が残されているほか、昭和33年に復興天守が建設され、2014年に天守門と共に付近の土塀が復元されました。
浜松城跡

浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570)6月に入城し、十七年間在城した。
東西600m、南北650mの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三之丸、二之丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。
ここは、その天守曲輪の跡である。
家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在城中に老中まで栄進した人が多い。
中でも水野越前守忠邦の名はよく知られている。
石垣は、野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されている。
天守曲輪


浜松城の天守台周辺には、本丸とは別に天守曲輪と呼ばれる区画が築かれている。
この天守曲輪の出入口として東に大手である天守門、西に搦手の埋門を配置している。
浜松城の天守曲輪は東西56m、南北68mで、石垣の折れ曲がる角度が様々で、複雑な多角形をしている点が特徴である。
これは自然の山の形を反映した結果と考えられ、石垣造りの曲輪としては古相を留めた形といえる。
また、曲輪の外周には土塁が巡らされていたと考えられる。
天守曲輪は掛川城、和歌山城等にも見られるが、類例は決して多くない。
掛川城は浜松城第二代城主堀尾吉晴の同輩である山内一豊が、和歌山城は豊臣秀長がそれぞれ築いており、豊臣秀吉と深く関わる遺構といえる。

ベンチもあり、くつろげるようになっています。
天守曲輪の石塁と土塀


2018年に浜松城の天守曲輪の発掘調査で、天守曲輪南側の土中から石垣が発見された。
この石垣は、その制作技法から、堀尾氏が在城していた頃(1590-1600)に作られたと推定される。
発見された石垣は、失われた上部を含めると3.2mの高さになる。
17世紀の絵図には、この石垣が高さ1m程度で描かれている。
このことから、建築当初の天守曲輪の地面は今より低く、17世紀の早い時期に2mほどが埋め立てられたと推定できる。
17世紀の絵図には、この石垣に加え、板葺きの土塀も描かれている。
19世紀の絵図では、この土塀は瓦葺きで表現されている。
これまでの発掘調査により、この土塀の瓦は、他の瓦と異なるため、土塀専用に制作されたものと推定される。
このことから、時代の経過とともに、土塀の構造も発展していったことがわかる。
天守曲輪の石垣の特徴~邪と屏風折~
天守曲輪に残る石垣は、斜面上半部だけに石を積んだ「鉢巻石垣」に分類できる。
石垣の平面形には屏風折や出隅、入隅が随所に見られる。
こうした複雑な形状は、戦闘時に迫る敵に側面から攻撃を加えるための工夫である。
邪は輪取りともいい、天守曲輪西側の埋門南側で観察できるが、国内の現存例は多くない。
さらに南に行くと、一旦鎬隅になった後に屏風折がある。
いずれも横矢掛という防御の技法で天守曲輪からの死角をなくすことができ、防御機能が高くなる。
天守曲輪南東側には出隅があり、このような部分が大規模になると櫓が建てられる。
一方、本丸北西隅には入隅があり、入隅は多くの城郭で見ることができる。
新たに発見された櫓跡

2018年に浜松城の天守曲輪で発掘調査を行った。
発掘調査の結果、天守曲輪南東角は石塁幅が広く、また、階段がつながっていたことがわかった。
また、この近辺には、大量の瓦が廃棄されていることもわかった。
発見された瓦の制作方法や文様などから、この瓦は堀尾氏が在城していた時代(1590-1600)に作られたと推定される。
このことから、1600年頃の天守曲輪南東角には、瓦葺きの建物として櫓があった可能性が高い。
しかし、その後描かれた17世紀の絵図には、その場所に櫓は存在していない。
このことから、この櫓は、17世紀の早い時期に取り壊されたと推定される。
徳川政権(1603-)が始まった初期に、豊臣政権の重臣だった堀尾氏の建物が取り壊されたということは、時代の変化を表す象徴的な出来事であった。
天守台

天守台には、ハート形をした石があり、その石探しが浜松城を訪れたカップル


わかりますか?

浜松城の天守台は、一辺21mのややいびつな四角形をしていて、西側に八幡台と呼ばれる突出部が付いている。
また東側には、付櫓と呼ばれる張り出し部分があり、現在は復興天守閣への入口として利用されている。
浜松城の天守は第二代城主堀尾吉晴の在城期(1590年頃)に築かれた説が有力だが、17世紀の絵図には天守が描かれていない事から、江戸時代前期には天守が失われていたと考えられる。
昭和33年に作られた現在の復興天守閣は、天守台の大きさと比べると小さいものである。
かつての浜松城は、築城時期などから大きな屋根を持つ下層部の上に小さな望楼が載せられる「望楼型」であった説が有力である。
その規模は天守台の大きさから推測すると現在よりも一回り大きい四重五階で、巨大な天守だったと考えられる。
模擬天守

昭和33年(1958年)4月26日に完成した鉄筋コンクリート造の復興天守は、地上3階地下1階建で、1-2階は徳川家康と浜松にまつわる歴史資料を展示する資料館、3階は展望台として使用されています。

井戸


この井戸は、銀明水と呼ばれていたという。
浜松城には、天守台に一つ、天守曲輪の埋門のそばに一つ、本丸に一つ、二の丸に三つ、作左曲輪に四つ、計十本の井戸があったという。
天守台の井戸は、再建の時に残し、今は天守閣の地下室にある。
直径一・三m、深さは現在一mほどになっており水はない。
八幡台

天守台の北西にある石垣で、天守台よりも高くなっています。

ここは天守台の北西にあたり、五段の石段により天守台より高い。面積はおよそ四十m2(十二坪)あり、浜松城のなかで最も高い所(四十一・九m)である。
城を守る神社(たぶん八幡大菩薩)をおまつりした所だといわれる。
八幡大菩薩は武士の守り神として信仰された。

搦手筋と埋門


この看板がある通路は搦手筋と言う。浜松城の天守曲輪には、2つの城内通路がある。
一つは天守門を通る大手筋(表の道)、もう一つは埋門を通る搦手筋(裏の道)である。
大手筋は、一般的に城主や客人用の通路として使われていたため、大手筋の門は立派な造りとなることが多い。
一方で、搦手筋は、日常管理や有事の際の脱出経路として使われていたため、搦手筋の門は小型で目立たない造りとなることが多い。
この坂の上の石垣が途切れた部分には、埋門が作られていた。
埋門とは、石垣の間に埋まるような構造をした門のことである。
門の幅は石垣の切れ間の幅から、約4mほどであったと推定される。
この絵図からは、天守曲輪の外周部を巡る土塀が、埋門の上部でも連続して覆われている様子がわかる。
(解説文:浜松市HPより)
にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。
応援よろしくお願いします!

にほんブログ村
歴女日記ブログランキングに参加しています。
ご協力お願いしますm(__)m

歴女日記ランキング
スポンサーサイト
- at 00:00
- [どうする家康:徳川家康(どうする家康)]
- TB(0) |
- CO(5)
- [Edit]
NoTitle
浜松城、当時の城郭では無くても、
再現された城であっても城は城です。
たしかに観るモノにっては、
意見も分かれたり致しますが、
これはこれそれはそれでいいのではありませんか・・。🤩
ありがとうございます。