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2023.05/20 [Sat]
作左曲輪と本多重次屋敷跡
武田軍との戦いで、徳川家康は本多重次を呼んで、長期戦になった場合の兵糧について相談すると、米を十分に貯蔵しているとの返事が返ってきました。それに喜んだ家康は、米蔵の位置に重次の屋敷を作ることを許し、それが後の浜松城の作左曲輪になったといいます。


作左曲輪
「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」 と長篠の陣中より妻にあてた手紙で有名になった本多作左衛門重次(1529~1596)が住んでいたところです。
重次は、家康の祖父清康の時代から仕えた老臣です。 家康の三河経営では、高力清長氏、天野康景氏とともに三奉行の一人とし活躍し、 「鬼作左」とも呼ばれていました。 元亀3年(1572)12月の三方ヶ原の戦いにも家康に従い、手柄をたてました。
作左曲輪のいわれについては、次のように伝えられています。
三方ヶ原の戦の時、家康は重次を呼んで、もし城が武田軍の重囲におちいり長期戦 となったらどうしょうかと兵糧について尋ねました。重次は十分貯蔵してありますと返事をしました。 家康は非常に喜んでその時の米蔵の位置へ重次の屋敷をつくることを許しました。
天正7年(1579)には、この屋敷に城柵を設け、城の搦め手とし「作左曲輪」と 呼んだといいます。
作左曲輪は、名残りの組屋敷へ続き、永く浜松城の西北の護りとなっていました。 現在、この付近には浜松城公園、浜松市立中部中学校があり、今でも「作左」「作左山」と言われ人々に親しまれています。

お城の形をした浜松城公園前交番の横に、本多重次屋敷跡の碑があります。

本多重次屋敷跡の碑


本多重次
通称は作左衛門(さくざえもん)。三方ヶ原の戦いでは大敗した徳川軍の中で、自ら敵兵数十人に囲まれて絶体絶命に陥る中、敵兵の繰り出す槍をたぐって1騎を落馬させ、首をかき切ってその馬を奪って浜松城に逃げ込んだ、という逸話も伝わる。

享禄2年(1529年)、本多重正の子として誕生した。通称の作左衛門と、剛邁で怒りやすいことから、「鬼作左(おにさくざ)」と綽名された。
三河国の戦国大名・徳川家康に仕え、天野康景、高力清長と共に三河三奉行の一人として、行政面に力を発揮した。奉行に登用された時、非道な事はせず、依怙贔屓をせず、明白に沙汰を遂げ、物事の埒が早く明くので、皆が驚いた。
また武将としても活躍し、永禄元年(1558年)、家康の寺部城初陣に従い功を挙げ、一向宗乱の時には、その宗門であったのを改めて誓書をたてまつり、所々に転戦している。また、小田原征伐においては、自ら勧誘した向井正綱と共に梶原景宗率いる北条水軍を迎撃してこれを打ち破っている。
ところが、小田原征伐後に家康が北条旧領の関東へ移封後、豊臣秀吉の命を受けた家康により、上総国古井戸(小糸とも。現在の千葉県君津市)3,000石にて蟄居を命じられた。その後、蟄居先が下総国相馬郡井野(現在の茨城県取手市井野)に変更される。
文禄5年(1596年)7月16日、死去。享年68。家督は長男の成重が継いだ。
(Wikipediaより)
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作左曲輪
「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」 と長篠の陣中より妻にあてた手紙で有名になった本多作左衛門重次(1529~1596)が住んでいたところです。
重次は、家康の祖父清康の時代から仕えた老臣です。 家康の三河経営では、高力清長氏、天野康景氏とともに三奉行の一人とし活躍し、 「鬼作左」とも呼ばれていました。 元亀3年(1572)12月の三方ヶ原の戦いにも家康に従い、手柄をたてました。
作左曲輪のいわれについては、次のように伝えられています。
三方ヶ原の戦の時、家康は重次を呼んで、もし城が武田軍の重囲におちいり長期戦 となったらどうしょうかと兵糧について尋ねました。重次は十分貯蔵してありますと返事をしました。 家康は非常に喜んでその時の米蔵の位置へ重次の屋敷をつくることを許しました。
天正7年(1579)には、この屋敷に城柵を設け、城の搦め手とし「作左曲輪」と 呼んだといいます。
作左曲輪は、名残りの組屋敷へ続き、永く浜松城の西北の護りとなっていました。 現在、この付近には浜松城公園、浜松市立中部中学校があり、今でも「作左」「作左山」と言われ人々に親しまれています。

お城の形をした浜松城公園前交番の横に、本多重次屋敷跡の碑があります。

本多重次屋敷跡の碑


本多重次
通称は作左衛門(さくざえもん)。三方ヶ原の戦いでは大敗した徳川軍の中で、自ら敵兵数十人に囲まれて絶体絶命に陥る中、敵兵の繰り出す槍をたぐって1騎を落馬させ、首をかき切ってその馬を奪って浜松城に逃げ込んだ、という逸話も伝わる。

享禄2年(1529年)、本多重正の子として誕生した。通称の作左衛門と、剛邁で怒りやすいことから、「鬼作左(おにさくざ)」と綽名された。
三河国の戦国大名・徳川家康に仕え、天野康景、高力清長と共に三河三奉行の一人として、行政面に力を発揮した。奉行に登用された時、非道な事はせず、依怙贔屓をせず、明白に沙汰を遂げ、物事の埒が早く明くので、皆が驚いた。
また武将としても活躍し、永禄元年(1558年)、家康の寺部城初陣に従い功を挙げ、一向宗乱の時には、その宗門であったのを改めて誓書をたてまつり、所々に転戦している。また、小田原征伐においては、自ら勧誘した向井正綱と共に梶原景宗率いる北条水軍を迎撃してこれを打ち破っている。
ところが、小田原征伐後に家康が北条旧領の関東へ移封後、豊臣秀吉の命を受けた家康により、上総国古井戸(小糸とも。現在の千葉県君津市)3,000石にて蟄居を命じられた。その後、蟄居先が下総国相馬郡井野(現在の茨城県取手市井野)に変更される。
文禄5年(1596年)7月16日、死去。享年68。家督は長男の成重が継いだ。
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こんばんは
本多家は代々徳川に仕えて行くのですね。
そう言う関係は家康の頃から続いているのですね。
その前からかな。
一緒に幕府を造って行ったのかな。