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2023.05/22 [Mon]
お万の方が結城秀康を産んだ中村家住宅
浜松市雄踏町に中村家住宅という重要文化財があります。
天正2年(1574年)2月8日、徳川家康の次男(幼名・於義丸、後の結城秀康)がこの中村家で生まれ、庭には、秀康の胞衣塚が残されています。
母親は家康の側室・お万の方で、出産時の胞衣をこの胞衣塚に埋めたといいます。
中村家住宅のパンフレットによると、
中村家の初代・中村正範(まさのり)は、源範頼の末裔の武士で、大和国広瀬郡中村郷に住んだ。1481年に14代正實(まさざね)が今川氏に招かれ、遠国江磐田郡に領地を賜り、1483年に宇布見に屋敷を構えました。
1568年、家康が遠江に入国した時、中村家18代正吉は船を出して迎えたり、徳川家に仕え、今切軍船兵糧奉行や代官を勤めていました。
家康の手が付いて於万が於義丸(秀康)を身籠った際、家康は築正妻・山殿の悋気を恐れ、於万を本多重次の許に預け、浜松城でなく、重次に匿われている中村家の屋敷で出産しました。

以降、中村家は今切軍船兵糧奉行や代官を勤め、31代幸八は昭和24年から衆議院議員として長く政界で活躍したそうです。
中村家住宅は、平成13年から解体修理、復元されて、現在一般公開されています。
長屋門


主屋


中村家住宅
中村家は、鎌倉時代から続く名門で文明15年(1483)この地に屋敷をかまえた。 徳川家康の次男(於義丸・後の結城秀康)が誕生した家である。
昭和48年、主屋が、大規模で質が良く内部の板戸等古い建具も残されているということで、 重要文化財に指定された。平成13年から15年にかけて解体復元工事を実施し、江戸時代前半の 貞享5年(1688)頃の建造物として現代によみがえった。
主屋の屋根の上部

茅葺きの屋根の上に瓦が乗っている住宅は、日本で三軒しかないそうです。
胞衣塚

1884年、越前松平一門家が塚の由来を記した胞衣塚碑を建立しました。
胞衣塚碑


天正2年(1574)2月8日、徳川家康の次男(幼名を於義丸(おぎまる)、後の結城秀康)が、この中村家で生まれた。 母親はお万の方で、出産時の胞衣(後産)を埋めたのが胞衣塚である。塚上の梅は徳川家康お手植えと伝えられ、数代を経ている。
明治17年(1884)に越前松平一門家が塚の由来を記した胞衣塚碑を建立した。石碑の篆額は松平確堂(津山藩7代藩主斉民の 隠居名)の染筆、碑文は松平慶永(福井藩16代藩主)の撰文である。
昭和55年(1980)、雄踏町の指定文化財になった。
家康お手植えの梅

石灯籠


天神社跡


では、主屋の中に入ってみましょう!

上がり口の上を見上がると、見事な梁が!


約3,000平方メートルの敷地内にある寄棟造葦葺平屋建の建物で、桁行(間口)21.3m、梁間(奥行)11.2m、平面積238.7平方メートルです。建物は、棟通りと梁間方向中央の柱通りを揃え、これを境として、桁行方向に部屋が食い違いの配置になっているという特徴があります。主屋の構造は、側柱(外回りの柱)は省略がなく、部屋境は2箇所を除いて柱を1間ごとに、楚石の上に直接立て、おもに貫(ぬき)で相互の連結がはかられています。
建物は18世紀中頃の建物とみられていました。しかし、貞享5年(1688)の銘がある鬼瓦が主屋に保管されていて、棟に上がっていた鳥衾(とりぶすま)と取合いが一致しました。このことから、貞享の時代にほぼ完成していたと考えられます。また、解体中に正徳2年(1712)の墨書、享保6年(1721)の木札が見つかりました。しかし、これらは後に設置されたものと考えられました。
中村家古文書(御目見控帳・冊十一)から、寛政4年(1792)には棟が瓦葺きであったことが確認できます。
文政8年(1825)の「御朱印御徐地社中并居宅等坪数御取扱之次第書上帳」からは、貞享5年(1688)より8年前の延宝8年(1680)に浜松城主から「中納言秀康様御誕生之御間御修復并居宅向等御手入被仰」したことがわかりその費用として、金百両、米五十俵が下されています。(中村家住宅HPより)
一筋鴨居兼用長押


格子窓


鏡戸


押板


囲炉裏

納戸構



四畳半


茶室


主屋の裏側

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天正2年(1574年)2月8日、徳川家康の次男(幼名・於義丸、後の結城秀康)がこの中村家で生まれ、庭には、秀康の胞衣塚が残されています。
母親は家康の側室・お万の方で、出産時の胞衣をこの胞衣塚に埋めたといいます。
中村家住宅のパンフレットによると、
中村家の初代・中村正範(まさのり)は、源範頼の末裔の武士で、大和国広瀬郡中村郷に住んだ。1481年に14代正實(まさざね)が今川氏に招かれ、遠国江磐田郡に領地を賜り、1483年に宇布見に屋敷を構えました。
1568年、家康が遠江に入国した時、中村家18代正吉は船を出して迎えたり、徳川家に仕え、今切軍船兵糧奉行や代官を勤めていました。
家康の手が付いて於万が於義丸(秀康)を身籠った際、家康は築正妻・山殿の悋気を恐れ、於万を本多重次の許に預け、浜松城でなく、重次に匿われている中村家の屋敷で出産しました。

以降、中村家は今切軍船兵糧奉行や代官を勤め、31代幸八は昭和24年から衆議院議員として長く政界で活躍したそうです。
中村家住宅は、平成13年から解体修理、復元されて、現在一般公開されています。
長屋門


主屋


中村家住宅
中村家は、鎌倉時代から続く名門で文明15年(1483)この地に屋敷をかまえた。 徳川家康の次男(於義丸・後の結城秀康)が誕生した家である。
昭和48年、主屋が、大規模で質が良く内部の板戸等古い建具も残されているということで、 重要文化財に指定された。平成13年から15年にかけて解体復元工事を実施し、江戸時代前半の 貞享5年(1688)頃の建造物として現代によみがえった。
主屋の屋根の上部

茅葺きの屋根の上に瓦が乗っている住宅は、日本で三軒しかないそうです。
胞衣塚

1884年、越前松平一門家が塚の由来を記した胞衣塚碑を建立しました。
胞衣塚碑


天正2年(1574)2月8日、徳川家康の次男(幼名を於義丸(おぎまる)、後の結城秀康)が、この中村家で生まれた。 母親はお万の方で、出産時の胞衣(後産)を埋めたのが胞衣塚である。塚上の梅は徳川家康お手植えと伝えられ、数代を経ている。
明治17年(1884)に越前松平一門家が塚の由来を記した胞衣塚碑を建立した。石碑の篆額は松平確堂(津山藩7代藩主斉民の 隠居名)の染筆、碑文は松平慶永(福井藩16代藩主)の撰文である。
昭和55年(1980)、雄踏町の指定文化財になった。
家康お手植えの梅

石灯籠


天神社跡


では、主屋の中に入ってみましょう!

上がり口の上を見上がると、見事な梁が!


約3,000平方メートルの敷地内にある寄棟造葦葺平屋建の建物で、桁行(間口)21.3m、梁間(奥行)11.2m、平面積238.7平方メートルです。建物は、棟通りと梁間方向中央の柱通りを揃え、これを境として、桁行方向に部屋が食い違いの配置になっているという特徴があります。主屋の構造は、側柱(外回りの柱)は省略がなく、部屋境は2箇所を除いて柱を1間ごとに、楚石の上に直接立て、おもに貫(ぬき)で相互の連結がはかられています。
建物は18世紀中頃の建物とみられていました。しかし、貞享5年(1688)の銘がある鬼瓦が主屋に保管されていて、棟に上がっていた鳥衾(とりぶすま)と取合いが一致しました。このことから、貞享の時代にほぼ完成していたと考えられます。また、解体中に正徳2年(1712)の墨書、享保6年(1721)の木札が見つかりました。しかし、これらは後に設置されたものと考えられました。
中村家古文書(御目見控帳・冊十一)から、寛政4年(1792)には棟が瓦葺きであったことが確認できます。
文政8年(1825)の「御朱印御徐地社中并居宅等坪数御取扱之次第書上帳」からは、貞享5年(1688)より8年前の延宝8年(1680)に浜松城主から「中納言秀康様御誕生之御間御修復并居宅向等御手入被仰」したことがわかりその費用として、金百両、米五十俵が下されています。(中村家住宅HPより)
一筋鴨居兼用長押


格子窓


鏡戸


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四畳半


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- [どうする家康:結城秀康(どうする家康)]
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NoTitle
中村家スゴい、ところがあるんですね。
遠いそれもずいぶんと前からあるところ。
歴史というかその伝統というか、
中々な重厚な建物がまえ。
当時からのその生き字引的お屋敷。
観るモノが見たら納得してうなずいたりするでしょう。
けさも、ありがとうございました。🤩