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2023.05/24 [Wed]
浅井三姉妹を匿ったという実宰院
長浜の実宰院は、浅井長政の姉にあたる阿久姫が昌安見久尼と称して出家した庵でしたが、小谷山実宰院と改称され、宗派も曹洞宗に改宗し、現在に至っています。

小谷城落城の際、長政は姉である見久尼に浅井三姉妹と母お市の方を匿ってもらうよう依頼し、三姉妹とお市の方はともに城を脱出し、実宰院にて匿われたとされています。



実宰院と昌安見久尼の由来
本寺は、鎌倉以前の創建といわれ、実才庵と称し天台宗であったが、その後、小谷山実宰院と改められ、曹洞宗に属している。
小谷山に居城を構えた浅井の二代目久政の長女、阿久姫は仏道修行を志し、出家され昌安見久尼(しょうあんけんきゅうに)と申した。父、久政は当村庄屋平野左近助にたのみ状をつかわし、天文11年3月5日、当時無住と化していたこの庵を再興させた。
寺伝によると、ご本尊は宇多天皇のご持物観世音菩薩であり、尼の座像は豊臣秀吉の室、淀君の寄進のもので、ともに寺宝として衆人の拝むところである。また、長政とお市の方の間に生まれていた悲運の茶々、おはつ、おこうの三人の姫は、戦国の乱世この庵に匿まれ、また、浅井家終焉の際には尼自らが養育されるところとなった。
当時、村人は幼い姫たちの悲しみや寂しさを村の行事の中にお誘いし、分ち合ってなぐさめたと伝え聞いている。また、苔むす庭園は、室町時代の築造である。
Wikipediaによると、
昌安見久尼(しょうあんけんきゅうに、天文7年(1538年) - 天正13年(1585年))は、戦国時代の女性。名は阿久あくであり、昌安見久尼は戒名。
浅井久政の長女だが、庶子のため祖父・浅井亮政の養女となった。生母は亮政の侍女と伝わるが定かではない。兄弟姉妹に浅井長政、京極マリアら多数。
母とともに実宰院(当時は実西庵)に移り住み、母の死後庵主となる。寺伝によれば、彼女は身長5尺8寸(176cm)・体重28貫(105kg)の大女であったため、嫁入りを諦めて、天文11年(1542年)に出家し、小谷城の南4kmの平塚村に庵を建てて移住し、実西庵の開基者となったとされる。
しかし、阿久が実際に出家したのは幼少期とされ、出家の理由としては疑わしいが、成長した彼女が長身であったことからの言い伝えかもしれない。
豊臣秀吉によって実西庵に庵料として50石の田畑を与えられ、三霊殿を創営して浅井三代を祀ったという。江戸時代に入っても秀吉の与えた50石は徳川秀忠の御朱印状で認められている。
実宰院に伝わる位牌によれば、天正13年(1585)に没している。実宰院本堂には江戸時代中期に作られた昌安見久尼の木造が安置されている。
逸話
実宰院境内にある花一輪に2個ずつ実をつけるという双子の梅は、阿久が出家するときに弟の長政が贈ったものと伝えられている。
小谷落城(小谷城の戦い)時の浅井三姉妹(茶々・初・江)について、通説ではお市の方と共に織田軍が身柄を引き取ったとされるが、長政は落城に先立って4人を実西庵に逃がし、阿久に養育を依頼したとの伝承がある。その後、実西庵にやって来た織田軍の残党狩りに対して、阿久はとっさに自身の法衣の中に三姉妹を匿ったと伝えられている。
この逸話を裏付ける史料はないものの、実宰院に伝わる慶長2年(1597年)5月1日付けの豊臣家奉行連署状が実西庵と豊臣秀吉に深い繋がりがあったことを示しており、秀吉から庵料を与えられたことと併せて、茶々との関係を暗示していると言われている。なお、三姉妹を保護したのは小谷落城時ではなく茶々たちの居場所が不明な時期、北庄落城後ではないかとも言われている。

こちらを訪ねた時、ちょうどご住職が境内の庭の草取りをされており、私たちに気付くと、本堂に案内してくださり、通常非公開の昌安見久尼木像を見せてくださいました。

身長5尺8寸(176cm)・体重28貫(105kg)の大女であったという寺伝にぴったりのふくよかな感じのする像でした。

実宰院と昌安見久尼についての詳しい説明もしてくださり、非常に有り難かったです。
本堂裏にある昌安見久尼の墓


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小谷城落城の際、長政は姉である見久尼に浅井三姉妹と母お市の方を匿ってもらうよう依頼し、三姉妹とお市の方はともに城を脱出し、実宰院にて匿われたとされています。



実宰院と昌安見久尼の由来
本寺は、鎌倉以前の創建といわれ、実才庵と称し天台宗であったが、その後、小谷山実宰院と改められ、曹洞宗に属している。
小谷山に居城を構えた浅井の二代目久政の長女、阿久姫は仏道修行を志し、出家され昌安見久尼(しょうあんけんきゅうに)と申した。父、久政は当村庄屋平野左近助にたのみ状をつかわし、天文11年3月5日、当時無住と化していたこの庵を再興させた。
寺伝によると、ご本尊は宇多天皇のご持物観世音菩薩であり、尼の座像は豊臣秀吉の室、淀君の寄進のもので、ともに寺宝として衆人の拝むところである。また、長政とお市の方の間に生まれていた悲運の茶々、おはつ、おこうの三人の姫は、戦国の乱世この庵に匿まれ、また、浅井家終焉の際には尼自らが養育されるところとなった。
当時、村人は幼い姫たちの悲しみや寂しさを村の行事の中にお誘いし、分ち合ってなぐさめたと伝え聞いている。また、苔むす庭園は、室町時代の築造である。
Wikipediaによると、
昌安見久尼(しょうあんけんきゅうに、天文7年(1538年) - 天正13年(1585年))は、戦国時代の女性。名は阿久あくであり、昌安見久尼は戒名。
浅井久政の長女だが、庶子のため祖父・浅井亮政の養女となった。生母は亮政の侍女と伝わるが定かではない。兄弟姉妹に浅井長政、京極マリアら多数。
母とともに実宰院(当時は実西庵)に移り住み、母の死後庵主となる。寺伝によれば、彼女は身長5尺8寸(176cm)・体重28貫(105kg)の大女であったため、嫁入りを諦めて、天文11年(1542年)に出家し、小谷城の南4kmの平塚村に庵を建てて移住し、実西庵の開基者となったとされる。
しかし、阿久が実際に出家したのは幼少期とされ、出家の理由としては疑わしいが、成長した彼女が長身であったことからの言い伝えかもしれない。
豊臣秀吉によって実西庵に庵料として50石の田畑を与えられ、三霊殿を創営して浅井三代を祀ったという。江戸時代に入っても秀吉の与えた50石は徳川秀忠の御朱印状で認められている。
実宰院に伝わる位牌によれば、天正13年(1585)に没している。実宰院本堂には江戸時代中期に作られた昌安見久尼の木造が安置されている。
逸話
実宰院境内にある花一輪に2個ずつ実をつけるという双子の梅は、阿久が出家するときに弟の長政が贈ったものと伝えられている。
小谷落城(小谷城の戦い)時の浅井三姉妹(茶々・初・江)について、通説ではお市の方と共に織田軍が身柄を引き取ったとされるが、長政は落城に先立って4人を実西庵に逃がし、阿久に養育を依頼したとの伝承がある。その後、実西庵にやって来た織田軍の残党狩りに対して、阿久はとっさに自身の法衣の中に三姉妹を匿ったと伝えられている。
この逸話を裏付ける史料はないものの、実宰院に伝わる慶長2年(1597年)5月1日付けの豊臣家奉行連署状が実西庵と豊臣秀吉に深い繋がりがあったことを示しており、秀吉から庵料を与えられたことと併せて、茶々との関係を暗示していると言われている。なお、三姉妹を保護したのは小谷落城時ではなく茶々たちの居場所が不明な時期、北庄落城後ではないかとも言われている。

こちらを訪ねた時、ちょうどご住職が境内の庭の草取りをされており、私たちに気付くと、本堂に案内してくださり、通常非公開の昌安見久尼木像を見せてくださいました。

身長5尺8寸(176cm)・体重28貫(105kg)の大女であったという寺伝にぴったりのふくよかな感じのする像でした。

実宰院と昌安見久尼についての詳しい説明もしてくださり、非常に有り難かったです。
本堂裏にある昌安見久尼の墓


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- [どうする家康:浅井長政(どうする家康)]
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NoTitle
長浜というところあること知ってても、
ちゃんと訪れたこともありませんし、
ずいぶん前の事でしたから、いまのように、
歴史等にも疎くてさらに興味もありませんでしたから、
こうした実幸院なんかがあっても、
知らんふりで情けない人生歩いて来ています。
いまも見せていただいた記事見ながら、
しっかりとけさも勉強させていだいております・・。🤩