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2023.05/23 [Tue]
結城秀康を祀る天神社と徳川ゆかりの息神社
中村家住宅から舞阪駅に向かう途中で通りかかった天神社


中村家の氏神で、元々中村家の敷地内にありましたが、現在は中村家住宅の北西に移されています。
中村家住宅「天神社跡地」


明治13年より昭和33年まで鎮座
弘化2年(1854)津山藩8代藩主 松平齋民(なりたみ)公が再建したもの。
現在は中村家住宅の北西に移されている。
釘隠しは津山藩 上屋敷 鍜治橋屋敷のものを使用した。
こちらは、松平秀康(結城秀康)をお祀りしている神社です。

結城 秀康(ゆうき ひでやす、松平 秀康〈まつだいら ひでやす〉、天正2年(1574年)2月8日 - 慶長12年(1607年)閏4月8日)は、日本の武将、大名。越前国北荘藩(福井藩)初代藩主。徳川家康の次男。越前松平家の祖。豊臣秀吉の養子となり羽柴秀康を、結城晴朝の養子となり結城秀康を名乗り、関ヶ原の戦い後、松平姓に復した。
天正2年(1574年)2月8日、徳川家康の次男として遠江国敷知郡宇布見村で生まれた。母は永見吉英の娘・於古茶(長勝院)。幼名は於義伊(於義丸 / 義伊丸 / 義伊松)と名づけられた。
誕生地は、今川氏の時代より代官や浜名湖周辺の船・兵糧の奉行を務める源範頼の系譜である領主・中村源左衛門正吉の屋敷であった。現存する同屋敷(建築物は江戸初期)内には、家康お手植えの松「秀康の胞衣塚」が残る。この縁により、のちの歴代福井藩主は参勤交代の際、中村家で供応を受ける慣例が続いた。
伝承では、秀康は双子で誕生し、もう一人はすぐに亡くなったとする言い伝えがある。
家康の正室・築山殿は長勝院が家康の子供を妊娠することについて、承認しなかったため浜松城内から退去させられたとされる。それは正妻としての権限であった。正妻は、別妻や妾として承知するどうかの権限を持っていたと考えられる。築山殿は長勝院を家康の妾とすることを承知しておらず、にもかかわらず妊娠したために、女房衆から追放したのである。それが江戸時代になると、妻の嫉妬などという、矮小化した理解になっている。秀康を妊娠した長勝院は重臣の本多重次の差配により出産にいたっている。城内から追放されたということは、生まれてくる子供を家康の子供として承認しないことを意味していた。
秀康は、重次や中村源左衛門のもとで育てられたという。築山殿が承認しない子供であったため、家康もまた認知できなかった。そのため家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。その対面も、あまりの冷遇を受ける異母弟を不憫に思った兄・松平信康による取りなしで実現したものであったという。ただ、父子対面はあったかもしれないが、それで家康の子として認知されたわけではなかった。築山殿が死去してから秀康は家康の子として認知されたのである。
冷遇の理由は、築山殿を憚ったためとも、双子で生まれてきたことにあるともされるが、寛永11年(1634年)に書かれた『中村家御由緒書』には「本多作左衛門が家康に委細を言上に及んだところ、家康には何か考えることがあり、お取り上げが難しいということになり」とだけ書かれている。研究者の小楠和正は武田勝頼との戦いに直面していたために家康は結城秀康を浜松城に引き取る機会も、対面する機会も持てなかったのではないかと推定している。
天正7年(1579年)、武田勝頼との内通疑惑から織田信長の命令により、兄・松平信康が切腹させられる(近年では信康が家康と対立したために切腹させられた、ともされる)。このため、次男である結城秀康は本来ならば徳川氏の次の後継者となるはずであった。
しかし、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和睦の条件として、結城秀康は秀吉のもとへ養子(徳川家や本願寺の認識、秀吉側の認識は人質)として送られ、家康の次の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされた。母親の身分は徳川秀忠の方が上であり、信康切腹前に生まれた秀忠が当初から後継者だったと考えられる。(Wikipediaより)

天神社
御祭神
菅原道真命
後醍醐天皇命
倉稲御魂神
岩長比賣神
松平秀康卿命
由緒
天喜4(1056)年天満天神の神夢により当郷の人民危機を逃れ、神霊を勧請し学問の神、産土の神として祀る。以来、永正9(1512)年 中村左衛門太夫正継 神主に任じ、天文20(1551)年社殿再建。
天正2(1574)年代官 中村家にて徳川家康公次男・越前中納言松平秀康公が誕生。当社を産土神として崇敬社領御寄付。明治7年浜松県令により近隣郷社・息神社境内へ迂座。明治13年官許を経て中村東海氏宅地の内、二畝歩を分割寄付したことにより往古の社地へ復社し現在に至る。

この中には秋葉灯籠が保存されています。

そして、こちらは息神社。

こちらも徳川家ゆかりの神社です。

「いきじんじゃ」ではなく、「おきじんじゃ」と読むそう。


慶応2年(705)祭神である二本の風神は、イザナギとイザナミの息から生まれたとされています。
神社名のあやかり、風邪や喘息など、息の病の治癒を祈願する人もいるそう。
息神社
祭神 志那都比古神
志那都比賣神
宇迦之御魂神
猿田毘古神
大宮比賣神
由緒
文武天皇慶雲2年(705年)の 勧請、延喜式神名帳所載式 内社仁寿2年(852年)従五位 下を受け官社に列せらる 中古山城国稲荷山の三神 を迎え米大明神と称す
徳川氏統一後諸政緒に就 くに至り慶安元年(1648年) 徳川家光公より朱印拾石 下附せられ安政七年(1860年) 郷社に列す
明治28年(1895年)5月 内大臣より許可を得息神社に復帰す

現在残されている棟札によると、
「文亀元年(1501)中村家14代の中村正實社殿再建。
天正14年(1586)徳川家康が本多重次(作左衛門)に命じて、社殿葺替えを行わせた。
家康が秀康の開運を祈願して息神社をその産土神に定めた。
徳川幕府から、朱印状により、神領10石を認められた。」
ことなどが記録されているそうです。
境内社

これはまた変わった建物ですね(^0^;)

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中村家の氏神で、元々中村家の敷地内にありましたが、現在は中村家住宅の北西に移されています。
中村家住宅「天神社跡地」


明治13年より昭和33年まで鎮座
弘化2年(1854)津山藩8代藩主 松平齋民(なりたみ)公が再建したもの。
現在は中村家住宅の北西に移されている。
釘隠しは津山藩 上屋敷 鍜治橋屋敷のものを使用した。
こちらは、松平秀康(結城秀康)をお祀りしている神社です。

結城 秀康(ゆうき ひでやす、松平 秀康〈まつだいら ひでやす〉、天正2年(1574年)2月8日 - 慶長12年(1607年)閏4月8日)は、日本の武将、大名。越前国北荘藩(福井藩)初代藩主。徳川家康の次男。越前松平家の祖。豊臣秀吉の養子となり羽柴秀康を、結城晴朝の養子となり結城秀康を名乗り、関ヶ原の戦い後、松平姓に復した。
天正2年(1574年)2月8日、徳川家康の次男として遠江国敷知郡宇布見村で生まれた。母は永見吉英の娘・於古茶(長勝院)。幼名は於義伊(於義丸 / 義伊丸 / 義伊松)と名づけられた。
誕生地は、今川氏の時代より代官や浜名湖周辺の船・兵糧の奉行を務める源範頼の系譜である領主・中村源左衛門正吉の屋敷であった。現存する同屋敷(建築物は江戸初期)内には、家康お手植えの松「秀康の胞衣塚」が残る。この縁により、のちの歴代福井藩主は参勤交代の際、中村家で供応を受ける慣例が続いた。
伝承では、秀康は双子で誕生し、もう一人はすぐに亡くなったとする言い伝えがある。
家康の正室・築山殿は長勝院が家康の子供を妊娠することについて、承認しなかったため浜松城内から退去させられたとされる。それは正妻としての権限であった。正妻は、別妻や妾として承知するどうかの権限を持っていたと考えられる。築山殿は長勝院を家康の妾とすることを承知しておらず、にもかかわらず妊娠したために、女房衆から追放したのである。それが江戸時代になると、妻の嫉妬などという、矮小化した理解になっている。秀康を妊娠した長勝院は重臣の本多重次の差配により出産にいたっている。城内から追放されたということは、生まれてくる子供を家康の子供として承認しないことを意味していた。
秀康は、重次や中村源左衛門のもとで育てられたという。築山殿が承認しない子供であったため、家康もまた認知できなかった。そのため家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。その対面も、あまりの冷遇を受ける異母弟を不憫に思った兄・松平信康による取りなしで実現したものであったという。ただ、父子対面はあったかもしれないが、それで家康の子として認知されたわけではなかった。築山殿が死去してから秀康は家康の子として認知されたのである。
冷遇の理由は、築山殿を憚ったためとも、双子で生まれてきたことにあるともされるが、寛永11年(1634年)に書かれた『中村家御由緒書』には「本多作左衛門が家康に委細を言上に及んだところ、家康には何か考えることがあり、お取り上げが難しいということになり」とだけ書かれている。研究者の小楠和正は武田勝頼との戦いに直面していたために家康は結城秀康を浜松城に引き取る機会も、対面する機会も持てなかったのではないかと推定している。
天正7年(1579年)、武田勝頼との内通疑惑から織田信長の命令により、兄・松平信康が切腹させられる(近年では信康が家康と対立したために切腹させられた、ともされる)。このため、次男である結城秀康は本来ならば徳川氏の次の後継者となるはずであった。
しかし、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和睦の条件として、結城秀康は秀吉のもとへ養子(徳川家や本願寺の認識、秀吉側の認識は人質)として送られ、家康の次の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされた。母親の身分は徳川秀忠の方が上であり、信康切腹前に生まれた秀忠が当初から後継者だったと考えられる。(Wikipediaより)

天神社
御祭神
菅原道真命
後醍醐天皇命
倉稲御魂神
岩長比賣神
松平秀康卿命
由緒
天喜4(1056)年天満天神の神夢により当郷の人民危機を逃れ、神霊を勧請し学問の神、産土の神として祀る。以来、永正9(1512)年 中村左衛門太夫正継 神主に任じ、天文20(1551)年社殿再建。
天正2(1574)年代官 中村家にて徳川家康公次男・越前中納言松平秀康公が誕生。当社を産土神として崇敬社領御寄付。明治7年浜松県令により近隣郷社・息神社境内へ迂座。明治13年官許を経て中村東海氏宅地の内、二畝歩を分割寄付したことにより往古の社地へ復社し現在に至る。

この中には秋葉灯籠が保存されています。

そして、こちらは息神社。

こちらも徳川家ゆかりの神社です。

「いきじんじゃ」ではなく、「おきじんじゃ」と読むそう。


慶応2年(705)祭神である二本の風神は、イザナギとイザナミの息から生まれたとされています。
神社名のあやかり、風邪や喘息など、息の病の治癒を祈願する人もいるそう。
息神社
祭神 志那都比古神
志那都比賣神
宇迦之御魂神
猿田毘古神
大宮比賣神
由緒
文武天皇慶雲2年(705年)の 勧請、延喜式神名帳所載式 内社仁寿2年(852年)従五位 下を受け官社に列せらる 中古山城国稲荷山の三神 を迎え米大明神と称す
徳川氏統一後諸政緒に就 くに至り慶安元年(1648年) 徳川家光公より朱印拾石 下附せられ安政七年(1860年) 郷社に列す
明治28年(1895年)5月 内大臣より許可を得息神社に復帰す

現在残されている棟札によると、
「文亀元年(1501)中村家14代の中村正實社殿再建。
天正14年(1586)徳川家康が本多重次(作左衛門)に命じて、社殿葺替えを行わせた。
家康が秀康の開運を祈願して息神社をその産土神に定めた。
徳川幕府から、朱印状により、神領10石を認められた。」
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- [どうする家康:結城秀康(どうする家康)]
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天神寺社なるところ当然知らないし、
もっとこの後ゆっくり拝見させていただいて、
勉強でしょう。由緒とか歴史とかもですが、
この建物等の風情は見たまんまで、
ああそうですかというところなんでしょうけど、
ゆかりと由緒、ありがたいところでしょう‥。🤩