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2023.06/02 [Fri]
長篠・設楽原の戦い(1)長篠城址
今年の3月の長篠・設楽原の戦いの史跡巡りをして来ました。

長篠城駅を降りて、早速見つけたのが、この武田勝頼ゆかりの「さかさ桑」

この看板の裏側にあります。


さかさ桑
長篠の戦いで大敗し、敗走する武田勝頼らはこの部落の農家で食事をとった際、桑の枝を折って、箸にして使い、使った桑の枝を、その前の畑に刺して、再び北へ落ち延びて行きました。その後勝頼らが差した桑の枝は逆さに芽を出して成長したといいます。これは勝頼の恨み姿かそれとも再起を示す執念のあらわれかと近郷近在の話題となったそう。
駅から最初に向かったのが、長篠城址史跡保存館
このインパクトある鳥居強右衛門の看板が目印です。


この建物の前に、長篠城跡、史跡巡りコース、長篠・設楽原の布陣図などの案内板があります。

長篠城は、永正5年(1508年)山家三方衆の1人菅沼元成によって築かれました。はじめ今川氏に属し、その後松平元康(家康)へ、そして元亀2年(1571年)武田氏へ属しました。その後天正元年(1573年)には、再び徳川家康が長篠城を奪回しました。
天正3年(1575年)奥平貞昌(信昌)を城主とし、援兵を入れて武田勝頼の侵攻に備え、5月、武田軍長篠城を攻撃、21日援軍の織田・徳川と設楽原で戦い、武田軍大敗。
天正4年(1576年)奥平信昌が新城城を築城し、長篠城は廃城になったとされています。
立地は、豊川と宇連川の合流点にあたり、自然の地形を巧みに利用した後ろ堅固な自然の要害となっており、土塁や巨大な堀跡が今もよく残っています。本丸跡を中心に約35,500平方メートルが史跡指定地となっています。


まずは、この付近を散策してみましょう。
帯郭跡


堀

土塁

長篠城址の碑


長篠城概要図

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長篠城駅を降りて、早速見つけたのが、この武田勝頼ゆかりの「さかさ桑」

この看板の裏側にあります。


さかさ桑
長篠の戦いで大敗し、敗走する武田勝頼らはこの部落の農家で食事をとった際、桑の枝を折って、箸にして使い、使った桑の枝を、その前の畑に刺して、再び北へ落ち延びて行きました。その後勝頼らが差した桑の枝は逆さに芽を出して成長したといいます。これは勝頼の恨み姿かそれとも再起を示す執念のあらわれかと近郷近在の話題となったそう。
駅から最初に向かったのが、長篠城址史跡保存館
このインパクトある鳥居強右衛門の看板が目印です。


この建物の前に、長篠城跡、史跡巡りコース、長篠・設楽原の布陣図などの案内板があります。

長篠城は、永正5年(1508年)山家三方衆の1人菅沼元成によって築かれました。はじめ今川氏に属し、その後松平元康(家康)へ、そして元亀2年(1571年)武田氏へ属しました。その後天正元年(1573年)には、再び徳川家康が長篠城を奪回しました。
天正3年(1575年)奥平貞昌(信昌)を城主とし、援兵を入れて武田勝頼の侵攻に備え、5月、武田軍長篠城を攻撃、21日援軍の織田・徳川と設楽原で戦い、武田軍大敗。
天正4年(1576年)奥平信昌が新城城を築城し、長篠城は廃城になったとされています。
立地は、豊川と宇連川の合流点にあたり、自然の地形を巧みに利用した後ろ堅固な自然の要害となっており、土塁や巨大な堀跡が今もよく残っています。本丸跡を中心に約35,500平方メートルが史跡指定地となっています。


まずは、この付近を散策してみましょう。
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- [どうする家康:武田勝頼(どうする家康)]
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NoTitle
いまもこうして、
こんなところが残って見られるんですね。
設楽といったら愛知県ですし一度でいい、
こんなところ史跡覗いて見たいですね。
良く調べて勉強してでないとダメですから・・。🤩