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2023.06/03 [Sat]
長篠・設楽原の戦い(2)長篠城址史跡保存館
では、「長篠城址史跡保存館」の中に入ってみましょう。

ここでも松潤家康公がお出迎え!

長篠城址史跡保存館は、「長篠城」の城跡にあり、「長篠の戦い」に関する資料を保存・展示しています。



信玄遺言状(馬場信房末裔所蔵写し)

1573年4月、武田信玄は、三河野田城を包囲中の陣中で病床に伏し、いったん甲府へ帰陣する途中の信濃伊那谷の駒場で53歳をもって病死した。
甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、内藤昌秀らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。
(Wikipediaより)

武田信玄の跡を継いだ武田勝頼は、1574年6月、徳川方の遠江高天神城を陥れ、ついで天正3年(1575)5月、1万5千の軍を率いて長篠城を包囲。
これにより、長篠・設楽原における武田軍と織田・徳川連合軍の戦いが始まりました。
また、大岡(大賀)弥四郎の内通事件が、天正3年(1575年)の事件であるとする説が出され、弥四郎の調略に成功した武田軍が岡崎城を目指したものの、内通が発覚して大岡が殺害されたために長篠方面に向きを変えた可能性がある。(Wikipediaより)
城主・奥平貞昌以下500の兵は、武田軍の攻撃によく耐えましたが、大軍に抵抗するにも限界となったため、織田信長、徳川家康へ救援を請うため、鳥居強右衛門を岡崎へ遣わせました。





強右衛門の子孫が、奥平家から拝領したという胴具足。


鳥居強右衛門像

鳥居強右衛門城脱出の図

長篠の戦いと鉄砲







長篠城址史跡保存館では、「長篠古戦場レンタサイクル」を実施しています。
こちらで、レンタサイクルの手続きをして、史料を集め、史跡巡りスタートです。
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信玄遺言状(馬場信房末裔所蔵写し)

1573年4月、武田信玄は、三河野田城を包囲中の陣中で病床に伏し、いったん甲府へ帰陣する途中の信濃伊那谷の駒場で53歳をもって病死した。
甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、内藤昌秀らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。
(Wikipediaより)

武田信玄の跡を継いだ武田勝頼は、1574年6月、徳川方の遠江高天神城を陥れ、ついで天正3年(1575)5月、1万5千の軍を率いて長篠城を包囲。
これにより、長篠・設楽原における武田軍と織田・徳川連合軍の戦いが始まりました。
また、大岡(大賀)弥四郎の内通事件が、天正3年(1575年)の事件であるとする説が出され、弥四郎の調略に成功した武田軍が岡崎城を目指したものの、内通が発覚して大岡が殺害されたために長篠方面に向きを変えた可能性がある。(Wikipediaより)
城主・奥平貞昌以下500の兵は、武田軍の攻撃によく耐えましたが、大軍に抵抗するにも限界となったため、織田信長、徳川家康へ救援を請うため、鳥居強右衛門を岡崎へ遣わせました。





強右衛門の子孫が、奥平家から拝領したという胴具足。


鳥居強右衛門像

鳥居強右衛門城脱出の図

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- at 00:00
- [どうする家康:武田勝頼(どうする家康)]
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NoTitle
あららぁレンタサイクルとは、
これはまたスゴイではありませんか。
設楽原の戦いの長條城址跡公園には、
こんなのまた展示館にあるんでしたか・・。
きょう明日こちらでは、
桶狭間の戦い祭りがあります・・。🤩