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2023.06/04 [Sun]
長篠・設楽原の戦い(3)戦国版「走れメロス」鳥居強右衛門磔の場と墓
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)は、三河の徳川家康方の奥平貞昌(後の奥平信昌)の家臣で、貞昌が長篠城に入ったのに従い、天正3(1575)年2月長篠城に入りました。
同年5月、長篠城は武田勝頼の大軍に囲まれ、籠城することになり、徳川家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請することになりました。
その命がけの困難な役目を自ら志願したのが強右衛門でした。14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発。

川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらまし、長篠城を脱出することに成功。翌15日の朝、長篠城からも見渡せる雁峰山から狼煙を上げ、脱出の成功を連絡。当日の午後に岡崎城に辿り着き、家康に長篠城の窮状を訴え、援軍の派遣を要請。それを聞いた家康は信長ともども出陣する決意を固めました。
強右衛門は、この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、すぐに長篠城へ向かって引き返しましたが、城の近くの有海村で、武田軍の兵に見付かり、捕らえられてしまいました。強右衛門への取り調べによって、織田・徳川の援軍が長篠に向かう予定であることを知った勝頼は、命令に従えば強右衛門の命を助け、武田家の家臣として厚遇することを条件に、「援軍は来ないからあきらめて降参した方がよい。」と言うように強右衛門に命令しました。
しかし、最初から死を覚悟していた強右衛門は、「あと二、三日で援軍が来るからそれまで持ちこたえよ。」と城に向かって叫びましだ。これを聞いた勝頼は怒り、その場で部下に命じ、篠場野において磔にかけて強右衛門を殺しました。

しかし、この強右衛門のおかげで「援軍近し」の情報を得た貞昌と長篠城の城兵たちは、強右衛門の死を無駄にしてはならないと士気を奮い立たせ、援軍が到着するまでの二日間、武田軍の攻撃から城を守り通すことに成功。強右衛門の行為が、長篠城籠城を継続させ、それが長篠設楽ケ原の織田・徳川連合軍大勝の大きな要因となりました。
「鳥居強右衛門磔の場」の碑を訪ねました。


長篠と設楽原を結んだ鳥居強右衛門

この説明には、
『勝頼は「勇気の士」としてその行動をたたえたが、武田の将兵によってこの地で磔となった。』
と書かれています。
まるで勝頼の命でないような書き方ですね(^0^;)
この「鳥居強右衛門磔の場の碑」から徒歩10分ほどの強右衛門の墓のある新昌寺へ。
援軍の総大将であった織田信長は、味方のために自ら犠牲となった強右衛門の最期を知って感銘を受け、その忠義心に報いるために立派な墓を建立させたと伝えられています。


新昌寺の由緒によると、
「山号には別に“鳥居山”もある。
本尊は釈迦牟尼仏。
創建は天文8年(1539年)長篠医王寺四世月傳太隋大和尚による。
創建当時は「喜船庵」と称された。
天正3年(1575年)の長篠合戦では、「喜船庵」のある有海の地は戦場となり、
特に篠場野の地には奥平家忠義の臣・鳥居強右衛門勝商の礫死跡があり碑が立っている。
合戦後、強右衛門は「喜船庵」に埋葬された。
「喜船庵」は萬治3年(1660年)新昌寺に改められ、寛政3年(1791年)には興国山新昌寺に改められた。
合戦後鳥居強右衛門の墓であるが、慶長8年(1608年)強右衛門の子信商の手によって作手鴨ケ谷甘泉寺に移転された。
その後百六十年間廃墟となっていたが、宝暦13年(1763年)に有志の手によって再建された。
碑面には「天正三乙亥年 智海常通居士 五月十六日 俗名鳥居強右衛門勝商 行年 三十六歳」とあり、
碑面左には「わが君の命に替る玉の緒を などいとひけん 武士の道」とあり、 これは辞世の句とされる。
明治36年(1903年)境内には鳥居閣が、大正9年(1920年)には墓が拡張され、現在の形に整えられた。
現在、毎年4月に“鳥居祭”が行われている。」






強右衛門の子孫は、高名となった強右衛門の通称を代々受け継いだ。強右衛門勝商の子・鳥居信商は、父の功により100石を与えられ、貞昌の子・松平家治に付属した。家治が早世すると貞昌の許に戻り、関ヶ原の戦いに従軍、京都で安国寺恵瓊を捕縛する大功により200石に加増された。その後、貞昌の末子・松平忠明が家康の養子として分家(奥平氏の支流。現埼玉県行田市にあった忍藩で明治維新を迎えた奥平松平家)を興すに至り、鳥居信商を家臣にもらい受けている。また、13代目の鳥居商次が家老になるなど、子孫は家中で厚遇された。強右衛門の家系は現在も存続している。(Wikipediaより)
なお、JR東海飯田線の鳥居駅は、強右衛門の最期の地にちなんでの命名なのだそう。
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同年5月、長篠城は武田勝頼の大軍に囲まれ、籠城することになり、徳川家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請することになりました。
その命がけの困難な役目を自ら志願したのが強右衛門でした。14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発。

川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらまし、長篠城を脱出することに成功。翌15日の朝、長篠城からも見渡せる雁峰山から狼煙を上げ、脱出の成功を連絡。当日の午後に岡崎城に辿り着き、家康に長篠城の窮状を訴え、援軍の派遣を要請。それを聞いた家康は信長ともども出陣する決意を固めました。
強右衛門は、この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、すぐに長篠城へ向かって引き返しましたが、城の近くの有海村で、武田軍の兵に見付かり、捕らえられてしまいました。強右衛門への取り調べによって、織田・徳川の援軍が長篠に向かう予定であることを知った勝頼は、命令に従えば強右衛門の命を助け、武田家の家臣として厚遇することを条件に、「援軍は来ないからあきらめて降参した方がよい。」と言うように強右衛門に命令しました。
しかし、最初から死を覚悟していた強右衛門は、「あと二、三日で援軍が来るからそれまで持ちこたえよ。」と城に向かって叫びましだ。これを聞いた勝頼は怒り、その場で部下に命じ、篠場野において磔にかけて強右衛門を殺しました。

しかし、この強右衛門のおかげで「援軍近し」の情報を得た貞昌と長篠城の城兵たちは、強右衛門の死を無駄にしてはならないと士気を奮い立たせ、援軍が到着するまでの二日間、武田軍の攻撃から城を守り通すことに成功。強右衛門の行為が、長篠城籠城を継続させ、それが長篠設楽ケ原の織田・徳川連合軍大勝の大きな要因となりました。
「鳥居強右衛門磔の場」の碑を訪ねました。


長篠と設楽原を結んだ鳥居強右衛門

この説明には、
『勝頼は「勇気の士」としてその行動をたたえたが、武田の将兵によってこの地で磔となった。』
と書かれています。
まるで勝頼の命でないような書き方ですね(^0^;)
この「鳥居強右衛門磔の場の碑」から徒歩10分ほどの強右衛門の墓のある新昌寺へ。
援軍の総大将であった織田信長は、味方のために自ら犠牲となった強右衛門の最期を知って感銘を受け、その忠義心に報いるために立派な墓を建立させたと伝えられています。


新昌寺の由緒によると、
「山号には別に“鳥居山”もある。
本尊は釈迦牟尼仏。
創建は天文8年(1539年)長篠医王寺四世月傳太隋大和尚による。
創建当時は「喜船庵」と称された。
天正3年(1575年)の長篠合戦では、「喜船庵」のある有海の地は戦場となり、
特に篠場野の地には奥平家忠義の臣・鳥居強右衛門勝商の礫死跡があり碑が立っている。
合戦後、強右衛門は「喜船庵」に埋葬された。
「喜船庵」は萬治3年(1660年)新昌寺に改められ、寛政3年(1791年)には興国山新昌寺に改められた。
合戦後鳥居強右衛門の墓であるが、慶長8年(1608年)強右衛門の子信商の手によって作手鴨ケ谷甘泉寺に移転された。
その後百六十年間廃墟となっていたが、宝暦13年(1763年)に有志の手によって再建された。
碑面には「天正三乙亥年 智海常通居士 五月十六日 俗名鳥居強右衛門勝商 行年 三十六歳」とあり、
碑面左には「わが君の命に替る玉の緒を などいとひけん 武士の道」とあり、 これは辞世の句とされる。
明治36年(1903年)境内には鳥居閣が、大正9年(1920年)には墓が拡張され、現在の形に整えられた。
現在、毎年4月に“鳥居祭”が行われている。」






強右衛門の子孫は、高名となった強右衛門の通称を代々受け継いだ。強右衛門勝商の子・鳥居信商は、父の功により100石を与えられ、貞昌の子・松平家治に付属した。家治が早世すると貞昌の許に戻り、関ヶ原の戦いに従軍、京都で安国寺恵瓊を捕縛する大功により200石に加増された。その後、貞昌の末子・松平忠明が家康の養子として分家(奥平氏の支流。現埼玉県行田市にあった忍藩で明治維新を迎えた奥平松平家)を興すに至り、鳥居信商を家臣にもらい受けている。また、13代目の鳥居商次が家老になるなど、子孫は家中で厚遇された。強右衛門の家系は現在も存続している。(Wikipediaより)
なお、JR東海飯田線の鳥居駅は、強右衛門の最期の地にちなんでの命名なのだそう。
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NoTitle
新城にはこのような歴史物語があるところ。
興味があって好奇心あるモノは、
たまんないけさは記事内容ですから、さらに、
まだ続きそうな話に首突っ込みたくなる・・。
そんな当時の歴史物語に敬服しかないでしょう。
ありがとうございます。🤩