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2023.06/05 [Mon]
長篠・設楽原の戦い(4)鳥居強右衛門呼びかけの所~馬場美濃守信房の墓
今回は、Googleマップに表示された史跡と長篠城址周辺マップを合わせてまわってみました。
二の丸、倉庫敷跡、糧庫跡

長篠城址史跡保存館のすぐそばにある二の丸、倉庫敷跡、糧庫跡の碑。
ここには、三つの碑が立てられています。
当時は、この辺りに食糧庫があったということですね。
鳥居強右衛門が泳いで脱出する時には、食糧庫まで武田軍が攻めてきていたといいます。
家老屋敷跡

鳥居強右衛門呼びかけの所

鳥居強右衛門が長篠城の向けて向けて「援軍は来る」と叫んだ場所。

敵に捕らわれた鳥居強右衛門が味方に援軍が来ることを伝える錦絵(Wikipediaより)
これはわかりにかった~(..;)
ほとんど字が消えかけています。
弾正郭跡

大手門址(蟻塚)

国道151号北側の大手門址に安永年間に建てられた「蟻封塔」という石碑があります。
当時、長篠の戦いの戦死者を埋葬した所におびただしい蟻が出て、付近の住民に災いを及ぼしました。そこで医王寺の住職に頼んで戦死者を供養し、蟻封じをしたと伝わっています。
馬場美濃守信房の墓

長篠城址から西へ約500メートル進んだ畑の中に、明治24年(1891年)に建立された馬場信房殿戦忠死之碑と墓が並んで立っています。

馬場美濃守信房は、武田信虎、信玄、勝頼の三代わたって仕え、長篠の戦いにおいては、敗走する
武田勝頼を守って戦いの殿(しんがり)をつとめた武田軍の勇将として知られています。

馬場美濃守の最期 (歌川豊宣画)

ここは、信房の首を埋めたところと言われています。

馬場美濃守信房(恵林寺蔵、松本楓湖筆)
最後まで戦線を保っていた馬場隊は武田軍の殿を務めるべく、勝頼が退却を始めると、内藤昌秀と共に退路にある山あいの急峻な地形を利用して残った兵数百で迫りくる連合軍の大軍をよく阻んだ。勝頼の姿が見えなくなり退却したのを見届けると、この時点でも信春はまだ無傷であったが、追撃する織田軍と戦い、織田家家臣原田直政の配下、河井三十郎に、首を差し出した。また、討ち取られと言う説もある。
『信長公記』にて「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評された最期だった。これは同書にて「余多の者に手を負はせ、其の後、腹十文字に切り、比類なき御働き」と評された三好義継の最期と同等である。享年61。
武田3代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったという。このため、現代において「不死身の馬場美濃」、「不死身の鬼美濃」と評されている。(Wikipediaより)
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二の丸、倉庫敷跡、糧庫跡

長篠城址史跡保存館のすぐそばにある二の丸、倉庫敷跡、糧庫跡の碑。
ここには、三つの碑が立てられています。
当時は、この辺りに食糧庫があったということですね。
鳥居強右衛門が泳いで脱出する時には、食糧庫まで武田軍が攻めてきていたといいます。
家老屋敷跡

鳥居強右衛門呼びかけの所

鳥居強右衛門が長篠城の向けて向けて「援軍は来る」と叫んだ場所。

敵に捕らわれた鳥居強右衛門が味方に援軍が来ることを伝える錦絵(Wikipediaより)
これはわかりにかった~(..;)
ほとんど字が消えかけています。
弾正郭跡

大手門址(蟻塚)

国道151号北側の大手門址に安永年間に建てられた「蟻封塔」という石碑があります。
当時、長篠の戦いの戦死者を埋葬した所におびただしい蟻が出て、付近の住民に災いを及ぼしました。そこで医王寺の住職に頼んで戦死者を供養し、蟻封じをしたと伝わっています。
馬場美濃守信房の墓

長篠城址から西へ約500メートル進んだ畑の中に、明治24年(1891年)に建立された馬場信房殿戦忠死之碑と墓が並んで立っています。

馬場美濃守信房は、武田信虎、信玄、勝頼の三代わたって仕え、長篠の戦いにおいては、敗走する
武田勝頼を守って戦いの殿(しんがり)をつとめた武田軍の勇将として知られています。

馬場美濃守の最期 (歌川豊宣画)

ここは、信房の首を埋めたところと言われています。

馬場美濃守信房(恵林寺蔵、松本楓湖筆)
最後まで戦線を保っていた馬場隊は武田軍の殿を務めるべく、勝頼が退却を始めると、内藤昌秀と共に退路にある山あいの急峻な地形を利用して残った兵数百で迫りくる連合軍の大軍をよく阻んだ。勝頼の姿が見えなくなり退却したのを見届けると、この時点でも信春はまだ無傷であったが、追撃する織田軍と戦い、織田家家臣原田直政の配下、河井三十郎に、首を差し出した。また、討ち取られと言う説もある。
『信長公記』にて「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評された最期だった。これは同書にて「余多の者に手を負はせ、其の後、腹十文字に切り、比類なき御働き」と評された三好義継の最期と同等である。享年61。
武田3代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったという。このため、現代において「不死身の馬場美濃」、「不死身の鬼美濃」と評されている。(Wikipediaより)
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NoTitle
夕べの大河見ましたが、
なかなかのシーンでど迫力がありました。
長篠も設楽もここでの戦いも愛知なんだから、
もっと知っててこそ出て来た強右衛門なる人物も、
わかっていなきゃあダメでしたが。
今朝のこの記事もそうですがこの先が、
それはさらにたのしく拝見できそう、
ありがとうございました。🤩