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大河ドラマに恋して

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長篠・設楽原の戦い(8)土屋昌次の墓~馬防柵

土屋昌次の墓
IMG_1153 土屋昌次の墓

土屋昌次は、甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。武田二十四将の一人に数えられる。
長篠の戦いで、信長自らの出陣を知って、信玄時代からの重鎮たち、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀らと共に撤退を進言したと言われているが、武田勝頼は決戦を行うことを決定する。そして長篠城の牽制に3,000ほどを置き、残り12,000を設楽原に向けた。

戦が始まると、真田信綱、真田昌幸と共に右翼の天神山に陣を敷いた。織田勢の三重柵の二重まで突破したが、一斉射撃を受け戦死したという。享年31。昌続の首は、従士の温井左近が手早く切り落として持ち帰り、信州まで逃げようとしたが逃げ切れずに、首を埋め、自分も腹をかき割って殉死したという。(Wikipediaより)

IMG_1152 土屋昌次の墓

甘利郷左衛門信康の碑
IMG_1154 甘利信康の墓

甘利信康は、武田信玄・勝頼2代に仕えました。
長篠・設楽原の戦いでは、織田・徳川軍に攻め込み、一時は柵を破る勢いでしたが、押し戻され天王山の麓で立ち腹を切りました。(奥三河観光ナビより)

IMG_1154 甘利信康の墓2

設楽原古戦場いろはかるた「を」
「雄々しくも 立ち腹さばく 甘利信康」

『長篠合戦余話』に収録された地元の伝承によると、信康は柳田前激戦地を担当していた。武田軍が敗れ撤退を始めると、信康は織田・徳川方の防御陣地づくりに協力した柳田地区の住民を呪いつつ、庄屋の屋敷門扉に寄りかかり、立ったまま切腹したという。(Wikipediaより)

柳田前激戦地
IMG_1155 柳田前激戦地

長篠・設楽原の戦いで、生き残った武田軍の各隊が合流して最後の突撃を行った場所です。

IMG_1156 柳田前激戦地

IMG_1155 柳田前激戦地2

設楽原古戦場いろはかるた「ぬ」
「ぬかるみに馬もしりごむ連吾川」

長篠・設楽原合戦屏風絵図
IMG_1157 合戦屏風絵図

IMG_1159 合戦屏風絵図

IMG_1158 合戦屏風絵図

馬防柵
IMG_1161 馬防柵

「馬防柵」は戦国時代に最強と恐れられていた武田の騎馬軍団に対抗するために信長が考えだした作戦とされています。
信長が連吾川のすぐ手前に馬防柵を築いたことは、設楽原に一つの巨大なお城を築いたと同じ意味がありました。連合軍はそのお城を守るために、攻めてくる武田の騎馬隊を鉄砲で迎え撃ったのです。
連合軍が築いた馬防柵の丸太は、信長が岐阜から設楽原へ兵士に一本ずつ持ち運ばせたとされています。戦国時代の設楽原一帯には今のように大きな木々は少なく人の背丈ほどの小さな樹木ばかりでした。このため馬防柵用の丸太を現地で調達することができなかったのです。(奥三河観光ナビより)

IMG_1160 馬防柵

設楽原をまもる会が中心となって、馬防柵を再現しており、5年おきに柵木を造り直しているそう。

IMG_1161 馬防柵

IMG_1163 馬防柵

IMG_1162 馬防柵

この日は、3月上旬でしたが、馬防柵の前で、寒桜に出会えました!

IMG_1165 寒桜

IMG_1164 馬防柵

IMG_1164 馬防柵2

設楽原古戦場いろはかるた「え」
えんえんと柵木岐阜よりかつぎまくる

鉄砲構え
IMG_1167 鉄砲構え

信長は岐阜出発の時点からこの合戦において鉄炮(てっぽう)を主戦力として用いることを計画し、3000挺(ちょう)の鉄炮を準備、長篠城の西方設楽原(したらがはら)に馬防柵(ばぼうさく)を築いて陣を敷いた。勝頼も兵を設楽原へ移し、徳川・織田連合軍と対峙(たいじ)した。5月21日徳川の将酒井忠次(さかいただつぐ)らは武田方の鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)を襲い、長篠城へ援軍を入れた。後方を攪乱(かくらん)された武田軍は設楽原決戦を挑み、騎馬隊を中心に次々と攻撃をかけたが、馬防柵に妨げられ、信長の側近部将が指揮する鉄炮隊の迎撃を浴びて多数の将士を失った。

 一般に、この合戦で信長は鉄炮を3段に構え交替で一斉射撃を行う戦法をとったと伝えられている。これに対して、実技上の見地からこの戦法が可能であったかどうか疑問とする説もある。戦いは午前8時ごろから午後2時ごろに及び、無勢となった武田軍は敗走、勝頼も身一つで信濃へ逃れた。武田方の戦死者は山県昌景(やまがたまさかげ)、土屋昌次(つちやまさつぐ)、馬場信房(ばばのぶふさ)などの信玄以来の宿将をはじめとして1万人に上ったといわれる。これ以後武田氏の勢力は急速に衰え、1582年(天正10)滅亡を招いた。

 この戦いにおいて、徳川・織田連合軍が新兵器の鉄炮を組織的に使用し、騎馬戦を得意とする武田軍に圧勝した点が注目され、従来の騎馬中心の個人戦から足軽の鉄炮隊を中心とする集団戦法へ移行する画期的戦闘と評価されている。
(Wikipediaより)

土屋昌次戦死の地
IMG_1168 土屋昌次

IMG_1169 土屋昌次

設楽原古戦場いろはかるた「つ」
土屋昌次柵にとりつき大音声

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Comment

NoTitle 

寒桜、ラッキーでしたね!
  • posted by シネマ大好き娘 
  • URL 
  • 2023.06/09 02:46分 
  • [Edit]

NoTitle 

こんにちは。
設楽はよくこのあたりは何度もというか、
時折というか通っていましたが、
この古戦場跡は絵で見るだけで、
まったく行った事はありませんから興味がわき、
いつかはと思ってるところです・・。
なんだかおもしろそうではありませんか。🤩
  • posted by マーチャン 
  • URL 
  • 2023.06/09 10:32分 
  • [Edit]

こんばんは 

こんばんは。
いわゆるターニングポイントだったのですね。
それまでの戦い方は敗れて行ったわけですか。
鉄砲恐るべしと。
武田方はそう思ったことでしょう。
  • posted by 自転車親父 
  • URL 
  • 2023.06/09 20:08分 
  • [Edit]

NoTitle 

この後、大阪の堺は鉄砲鍛冶が
良質な鉄砲を生産していきますが
今も「鉄砲町」という地名が
残っていますわ。

応援ぽち
  • posted by よっちん 
  • URL 
  • 2023.06/09 21:59分 
  • [Edit]

NoTitle 

これは古戦場の様子が見れて、いいですねぇ。
応援ぽち2.
  • posted by みかん農家 
  • URL 
  • 2023.06/09 22:35分 
  • [Edit]

皆様へ 

こんばんは!
今日もコメントありがとうございました。

今週は、ついにこの設楽原の決戦が描かれます。
「鉄砲三段撃ち」「武田の騎馬軍団」について、最近の研究では疑問視されているとの声もありますが、戦いの中で、鉄砲が活躍したことには違いありませんね。
  • posted by しずか 
  • URL 
  • 2023.06/10 02:26分 
  • [Edit]

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