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山崎の合戦(1)山崎合戦古戦場跡~明智光秀本陣跡~恵解山古墳

羽柴秀吉は高松城に篭る毛利軍を包囲していましたが、6月3日に本能寺の変の報を受け、ただちに毛利軍との和議を結び、「中国大返し」と言われる驚きべき速さで備中から京都に軍を返し、6月13日、秀吉軍4万の兵力で山崎にて1万6000の明智光秀軍と戦いました。

両雄がぶつかった「山崎合戦の地」は、現在は京都縦貫自動車道の高架下に「天王山夢ほたる公園」として整備され、広場には、「天下分け目の天王山 山崎合戦古戦場」と記された石碑が建ち、その向こうには天王山の姿も確認できます。

IMG_4149 山崎合戦古戦場

右手に見えるのが、サントリービール工場です。

山崎合戦古戦場
IMG_4147 山崎合戦古戦場

IMG_4151 天王山夢ほたる公園

IMG_4150 天王山夢ほたる公園

IMG_4145 天王山夢ほたる公園

IMG_4152 山崎合戦古戦場

天下分け目の天王山
山崎合戦
織田信長の天下統一は目前に迫っていた。天正10年(1582)6月2日、毛利攻めの総仕上げに向かうため京・本能寺にあった信長を丹波亀山城主で家臣の明智光秀が急襲したのである。手勢僅かの信長は紅蓮の炎の中で亡くなってしまう。世に言う「本能寺の変」の勃発である。この変によって光秀はポスト信長の最右翼に躍進した。
3日「信長死す」の知らせは備中高松城で毛利の先鋒清水宗治軍と対峙していた羽柴秀吉の元にも届く。秀吉は黒田官兵衛の進言により戦を納めるため毛利との講和を急いだ。城主の切腹、開城を条件に講和を固めることができた。毛利の主力が引き上げるのを確認すると、世に言う「中国大返し」の始まりである。1日に50キロ以上を移動し京へ向けて突き進んだ。一方光秀は、京周辺の武将に同心、合力を求め書状を送るも応じる武将は少なく、娘が嫁いだ丹後の細川藤孝、忠興父子にも見放されてしまった。12日羽柴軍は摂津富田に進行。光秀は京から桂川を渡り、長岡・勝龍寺城付近に主力を展開した。13日午後4時頃、大山崎荘の町場外れを流れる円明寺川(現小泉川)を挟んで羽柴軍3万6千、光秀軍1万5千の軍勢が対峙した。そして午後4時30分頃合戦の火蓋が切って落とされる。高山右近や中川清秀、池田恒興等摂津にいる主要な武将を味方につけた秀吉軍は一方的に攻め、僅か1時間余りで勝利を収めた。
大山崎の住人は合戦に巻き込まれることなく済んだ事に安堵したことであろう。
勝利した秀吉は天王山山頂から山麓に山崎城を築城し、大山崎から天下統一を目指すことになる。

石碑付近では、大山崎町観光スマートフォンアプリで、合戦の様子を紹介した動画を楽しめます。


山崎の合戦の際、明智光秀の本陣と伝えられる御坊塚があったのが、サントリー京都ビール工場の裏手に当たる境野古墳群と考えられています。

明智光秀本陣跡
IMG_2390 明智光秀本陣跡

IMG_2386 明智光秀本陣跡

IMG_2384 明智光秀本陣跡

IMG_2385 明智光秀本陣跡

境野一号墳と明智光秀本陣跡
境野一号墳
 境野一号墳は、古墳時代前期後半の前方後円墳で、四世紀後半に当たります。現在まで九次にわたる調査の結果、全長58m、後円部径32mを測る規模に復原されます。斜面は、後円部が二段か三段、前方部が二段に築かれています。斜面には葺石(ふきいし)を施し、平坦面には円筒埴輪を樹立させています。
 埋葬施設は不明ですが、後円部の藪土からは、車輪石(しゃりんせき)・石釧(いしくしろ)などの石製品や鉄刀などが採取されています。これらは副葬品の一部と思われます。
 境野一号墳が立地する下植野の段丘は、南側を見下ろすことができます。淀川を行き交う人々からの眺めを意識して造営されたことがうかがえます。

明智光秀本陣跡
 境野一号墳は天正10(1582)年6月13日夕刻に起こった天下分け目の天王山「山崎合戦」の時、明智光秀方の本陣が置かれた場所ではないかと考えられています。
 『太閤記』の記述に御坊塚に光秀本陣が置かれ、兵力は五千有余とあり、当地周辺の地形を考慮すると、当古墳上が本陣に利用されたものと考えられます。古墳のある場所は標高25.2mを測り、周辺と比べるとひと際高く、天王山や西国街道方向に視界がひらけます。羽柴秀吉の軍勢と対峙し、味方の軍勢を把握して指揮するのにうってるけの場所が本古墳であったと言えるでしょう。
 当地周辺で行った発掘調査では空堀り跡とみられる遺構が複数発見され、合戦前夜から本陣の準備が進められ、秀吉軍を迎え撃つ準備を進めていたと考えられます。また火縄銃の鉄砲玉も出土し、両軍の激戦の様子が窺えます。
 合戦は圧倒的な兵力を誇る秀吉軍の勝利に終わります。光秀はわずかばかりの手勢を伴い勝龍寺城から近江坂本城に向かう途上、山科小栗栖で落ち武者狩りの村人の手にかかり、無念の最後を遂げたと言われます。


案内板のすぐとなりには住宅街の中で小高い丘のようになっていて、今は一般の墓地となっており、竹やぶやお堂などがあります。空堀跡や火縄銃の鉄砲玉も見つかっていて、標高は25mあり、戦場を見渡せることから長らく本陣とみなされてきましたが、最近の研究では、この境野古墳から北へ10分ほどの場所にある長岡京市の大阪成蹊大学構内の発掘調査中の現場から、堀の遺構が発掘され、「恵解山古墳」が光秀本陣跡だったのでは?という説が出ているそうです。

「明智光秀本陣跡」は、西山天王山駅から徒歩10分程度のところにあります。
私は、サントリービール工場の見学の帰りに寄りました。


もう一つの山崎の戦いの本陣である御坊塚を置いた説の場所は、恵解山古墳です。

IMG_2351 恵解山古墳

兵が駐屯するために、古墳を平らに整形した曲輪の跡などが確認され、近年有力説となっています。

IMG_2353 恵解山古墳

IMG_2354 恵解山古墳

史跡 恵解山古墳の概要
 恵解山古墳は、古墳時代中期(4世紀末~5世紀後半)に築造された全長約128mの乙訓地域最大の前方後円墳です。桂川右岸の標高約16mの台地の縁に造られています。周囲には、幅約30mの周濠があり、周濠を含めた古墳の全長や約180mに達します。古墳は3段に築かれ、斜面には砂岩やチャートの河原石がふかれ、各段と頂部平坦面には埴輪が並べられていました。後円部には、死者を埋葬した竪穴式石室があったとみられます。前方部の中央には刀剣などの鉄製武器が約700点納めてあり、京都府で他に例がなく、全国的にも珍しいものです。恵解山古墳は、その規模や構造から5世紀前半頃に桂川右岸の乙訓地域全域を治めた支配者の墓と考えられます。

IMG_2355 恵解山古墳

IMG_2357 恵解山古墳

IMG_2359 恵解山古墳

IMG_2360 恵解山古墳

IMG_2361 恵解山古墳

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IMG_2365 恵解山古墳

IMG_2366 恵解山古墳

天王山
IMG_2373 天王山

男山
IMG_2377 男山

前方部の葺石
IMG_2383 前方部の葺石

IMG_2382 前方部の葺石

 ここでは、実際に使われていた石材を使って葺石を復元しました。裾部に人頭大の石を置き、縦や横方向にも大きめの石で区画しながら、その間を拳大の石を差し込むように積みあげています。
 葺石は、古墳の南西側にある小泉川から採取した河原石で、砂岩とチャートがほとんどです。
 葺石に覆われた古墳は、白く輝く石の山として、強烈な印象を与えたことでしょう。

西造り出し
IMG_2379 西造り出し

IMG_2378 西造り出し

西造り出し
ここは、前方部西側に取りつく、東西約8.5m、南北約12mの四角い施設で、特別な葬儀が行われた場所とみられています。造り出し上面は、埴輪で囲われていました。その東辺の埴輪列は、北よりで食い違って、そこから中へ入る仕組みになっていました。造り出しの取りつき部分には、そこを島に見立てた入江状の表現があり、当時の死生観を知るうえで興味深いものです。

IMG_2369 武器埋納施設

武器埋納施設
ここには、多量の鉄製武器類が木の箱状の入れ物に納められていました。その大きさは、長さ6.5m以上、幅約80㎝です。箱の底には刀が、その上に剣と槍が、さらにその上に短刀と大量の矢が束ねられて整然と置かれていました。約700点もの鉄製品は、葬られた人の権力の高さを物語っています。
このほか、前方部斜面の崩れた土の中から、鉄製品が多く出土しています。刀や剣、鏃などの武器も含まれていますが、鉄製の斧、鎌、鍬先などの農工具類が多く、斧をかたどった石製品もあります。武器類埋納施設とは別の、農工具類を中心とした埋納施設があったと思われます。

IMG_2371 恵解山古墳

交通と恵解山古墳・山崎合戦

恵解山古墳は、西側から続く標高約16mの低い台地の縁に築かれています。この古墳より東には、桂川右岸に広がる平野があり、南に緩やかに下りながら幅を狭めています。この場所は、桂川、木津川、宇治川の三つの川が合流して淀川となる地点にも、近い位置です。京都から大阪平野に流れ込むこれらの川は、古代の水上交通上重要であり、この重要地点を押さえていた自らの権力の強さを、往来する人たちに知らしめ、見せつけていたことでしょう。
山崎合戦と恵解山古墳
織田信長が明智光秀に倒された本能寺の変の直後、羽柴(豊臣)秀吉と光秀が激突した山﨑合戦は、あまりにも有名ですが、恵解山古墳も、この戦いの舞台ともなった可能性があります。
発掘調査で、当時の土器片とともに火縄銃の鉛弾が出土しています。また、後円部にある現在の墓地が棚田状に3段になっていることや、前方部に大きな掘り込みがあることも、光秀方が恵解山古墳に陣を置いた際の造作である可能性があります。

IMG_2380 後円部

後円部
後円部は、直径約78.6m、高さは約10.4mと推定しています。頂部は、早くに大きく削られて、江戸時代から墓地として利用されてきました。墳頂部の中央には、周辺から出土した板状の石材から、死者を葬るための竪穴式石室があったと考えられます。
ここでは、後円部裾の葺石が検出されました。斜面に他より一回り大きい基底石が前方部裾にあり、後円部にないことが注目されます。西くびれ部最上段斜面の葺石の様子は、最下段斜面に復元的に再現しています。



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Comment

NoTitle 

おはようございます。
ここはテレビで何度もやってて見ました。
ただ行った事なくて知らないところです。
こうしてきめ細かく絵と共に聞かせていただくと、
そして見せていただいても何もないが、
いろいろわかりましたし楽しくなってまいります。
そんなこともあったところだと納得してます。
今朝もありがとうございます。
🤩
  • posted by マーチャン 
  • URL 
  • 2023.08/02 05:29分 
  • [Edit]

NoTitle 

天下分け目の天王山…

この辺りは大阪府と京都府の府境になるのですが
交通の要所でもあるんですよ。

天王山の麓は東海道新幹線、東海道本線、
阪急京都線が走っており
撮り鉄さんの姿もよく見かけますわ。

応援ぽち
  • posted by よっちん 
  • URL 
  • 2023.08/02 16:36分 
  • [Edit]

こんばんは 

こんばんは。
天下分け目ですね。
ここでその後が決まったのですね。
大事な戦いだったのでしょう。
ビール工場とは面白いです。
  • posted by 自転車親父 
  • URL 
  • 2023.08/02 21:26分 
  • [Edit]

NoTitle 

大きな古墳のあるところだったのですね。
サントリーのあるところとは聞いていましたが、
こんな風に整備されているのですね。
応援ぽち2.
  • posted by みかん農家 
  • URL 
  • 2023.08/02 22:17分 
  • [Edit]

皆様へ 

こんばんは😃🌃
今日もコメントありがとうございました。
ここは、サントリーのビール工場の見学と合わせて行きました。見学は予約制ですので、予約者時間に遅れないように、史跡巡りを先に終わらせました。歩き疲れた後のビール🍺は格別でしたよ😃

  • posted by しずか 
  • URL 
  • 2023.08/02 22:39分 
  • [Edit]

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