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山崎の合戦(2)天王山の戦い

山崎の合戦は「天王山の戦い」とも呼ばれ、羽柴秀吉の軍勢が、6月13日に摂津国と山城国の境に位置する山崎の地(現在の京都府乙訓郡大山崎町付近)において、明智光秀の軍勢と激突しました。

天王山登り口から急な坂を登っていきます。

IMG_4072 天王山

IMG_4076 天王山

IMG_4071 天王山

宝積寺は、天王山(270m)の南側山腹にあり、寺伝では神亀元年(724年)、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝わり、行基が山崎橋という対岸八幡への往来の橋を建てた際に、橋寺として創建した「山崎院」の後身と考える説があります。

聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」を祀ることから通称「宝寺」(たからでら)の別名があり、大黒天宝寺として商売繁盛のお寺として知られています。

山崎の戦いでは羽柴秀吉の本陣となり、直後、秀吉により天王山に建設された「山崎城」にも取り込まれ、このため城は「宝寺城」とも呼ばれました。

IMG_4082 宝積寺

IMG_4092 宝積寺

宝積寺

一般には宝寺の名で知られており、本町に現存する寺院の中で最も古い歴史を誇る。
寺伝によると奈良時代に聖武天皇の勅願寺として僧行基が開創したと伝え、その後、長徳年間(995年~999年)寂照が中興し、室町初期には八幡宮油座からの寄進も多くあり寺運は大いに盛り上がった。さらに嘉慶3年には定額寺にも列し、多くの子院をもつに至る。
戦国時代の終わり、山崎合戦の折には羽柴秀吉が一時当寺を陣所とし、合戦後宝寺も山崎城の一部として利用されたと伝えられる。
しかし幕末の動乱は宝寺にも押し寄せ、元治元年(1864年)の兵火と廃仏殷釈で寺運はすっかり衰微したが徐々に寺観、寺域も復興され今日にいたった。現在、乙訓地方で最も多くの文化財を保有する寺院で、見るべき仏像が多くある。

昭和61年3月
大山崎町教育員会
(駒札より)

本堂
IMG_4084 宝積寺

小槌宮
IMG_4093 宝積寺

三重塔
IMG_4086 宝積寺

IMG_4087 宝積寺

閻魔堂
IMG_4090 宝積寺


天王山「旗立松展望台」から見下ろす山崎合戦の地

IMG_4109 旗立松展望台

IMG_4111 旗立松展望台

IMG_4115 旗立松展望台

現在の大山崎JCTあたりを挟んで両軍が対陣したと言われています。


天下分け目の天王山 天正・山崎合戦
 天正10年(1582)6月2日、京本能寺で織田信長が討たれた。その報は2日後、中国地方備中高松城攻めを信長から命ぜられていた羽柴秀吉の元にも届いた。秀吉は急遽毛利氏との和睦を成し、山陽道、西国街道をひた走り京を目指した。一方、主君信長を討ち、京、近江を制圧した明智光秀は秀吉が京を目指して兵を移動させていることを知り、軍勢を摂津、河内境へと進めた。
 6月13日午後4時頃戦いは始まった。秀吉軍3万数千、光秀軍1万数千の軍勢が眼下小泉川(旧円明寺川)付近で激突した。戦いは短時間で決し、軍勢に勝る羽柴軍の一方的な勝利に終わった。敗北を知った明智の兵は方々に逃散し、光秀も本陣背後の勝竜寺城に一時退去、夜陰に乗じて僅かな手勢を伴って近江へと逃れていった。一行は掛山丘陵を超えた小栗栖で土民の襲撃を受け、光秀は竹槍に掛かり乱世の戦いに明け暮れした短い生涯に終止符を打った。合戦直後、秀吉は天王山一帯に城を築城し、大山崎から天下統一へと乗り出すことになる。

ひょうたん掛処
IMG_4139 ひょうたん掛処

山崎合戦の時、秀吉が味方の士気を高めるため、老松の樹上高く「千成瓢箪」の旗印を掲げ、戦局に大きな影響を与え、勝利を収めたといわれています。

その瓢箪の旗印にちなみ、秀吉の勝ち運にあやかって作製した「木製ひょうたん」にさまざまな勝負の願いを書き、「ひょうたん掛け処」に掲げられるよう設置されたものです。

※現在は、老朽化が進んでいたため、一時的に撤去を行い、再設置に向け取り急ぎ作業をすすめているそうです。

旗立松
(画像:Wikipediaより)

旗立松(天正山崎合戦の史跡)
 天正十年六月二日、洛中本能寺に宿泊していた織田信長公は、家臣である明智光秀の手によって暗殺された。信長死去の知らせは備中高松城(現岡山県)を攻略していた羽柴秀吉の元にも届き、秀吉は急ぎ毛利氏(城主清水宗治)と和義を結び京都へと向かった。一方明智光秀は秀吉の帰洛に備え御坊塚(下植野)に本陣を敷き、六月十三日夕刻天下分け目の天王山の戦い(山崎合戦)の火ぶたは切っておとされた。
 羽柴秀吉は天王山へ駆け登り、味方の士気を高めるために松の樹上高く軍旗を掲げた。これを見た羽柴軍は一気に敵陣内に攻め入り明智軍はその結果防戦一方になり総くずれになってしまった。これによって光秀は僅かな手勢を従えて近江へと落ちていくのである。
 その初代と伝えられる松も明治中頃まで槁木(こうぼく)の姿をとどめていたが朽ちてしまい、その後三回の植樹をへた昭和六十三年、再び枯れたため、国民体育大会を機に五代目の旗立松を植樹し今日に至っている。
  平成元年三月

山崎合戦之地
(画像:Wikipediaより)

 
明智光秀の最期
古い常識人の敗北
 天下分け目の合戦は、一刻半(約三時間)ほどで終わった。明智勢は総崩れとなり、総大将の明智光秀は勝龍寺城に逃げ込んだ。
 だが、ここは小さな平城、到底、羽柴(豊臣)秀吉の大軍を支えることはできない。明智光秀は、夜が更けるのを待って少数の近臣と共に勝龍寺城を脱け出し、近江坂本城を目指して落ち延びようとした。坂本城は明智家の本拠で光秀の妻子もいた。
 しかし、山科小栗栖にさしかかった時、竹薮から突き出された竹槍に刺されて重傷を負い、その場で自刃して果てた。当時は、普通の村人でも落ち武者狩りに出ることが珍しくなかった。光秀を刺したのも、そんな落ち武者狩りの一人だった。享年五十五歳、当時としては初老というべき年齢である。
 これより十五年前、足利義昭の使者として織田信長と相まみえた明智光秀は、詩歌にも礼法にも詳しい博識を買われて織田家の禄を食むことになった。それからの出世は早く、僅か四年で坂本城主になり、やがて丹波一国を領地に加えて織田家屈指の有力武将にのし上がった。織田信長と将軍になった足利義昭とが不和になった際には、いち早く信長方に加担、細川藤孝らの幕臣を口説いて信長方に転向させた功績が信長に高く評価されたのだ。
 だが、光秀は、信長の改革の過激さに反発を感じ出した。古い常識にこだわる知識人の弱さ、というものだろう。
 一方、山崎の合戦で勝利した羽柴秀吉は、時を移さず明智光秀の領地を占領、丹羽長秀や池田興恒ら織田家の重臣たちを配下に加え、「次の天下人」への道を駆け登る。
 この間、織田家の他の重臣たちは容易に動けなかった。みな前面には強敵がいたし、背後では土一揆が蜂起した。信長の死と共に、織田領全体に混乱が生じていたのだ。
 世はいまだに乱世、将も民も、野心と危険の間で生きていたのである。

作:堺屋太一
画:岩井弘


秀吉の「天下への道」はここからはじまった
 山崎の合戦で明智光秀を破った羽柴(豊臣)秀吉には、織田信長に代わる「次の天下人」との期待が集まり、織田家の家臣の大多数も、秀吉の命令に服するようになった。
 これに対して柴田勝家は、滝川一益らと組んで信長の三男の神戸信孝を担ぎ、秀吉の天下取りを阻もうとした。しかし、丹羽長秀や池田恒興らと結んで次男の北畠信雄を取り込んだ秀吉の優位は揺るがず、翌天正十一年(一五八三年)四月の賤ケ岳(滋賀県)の合戦は、秀吉の圧勝に終わった。
 柴田勝家らの勝利した秀吉は、天下統一の象徴として、大坂の地に巨城を築いた。天正十一年に着工したこの城は、天下の政治を行う天下城、つまり首都機能の所在地だった。
 秀吉は城の縄張りを黒田官兵衛孝高に、襖絵を狩野永徳一門に、接遇演出は茶頭の千宗易(利休)に委ねた。信長は美意識の面でも独裁者だったが、秀吉は専門家の意見を尊重した。
 秀吉は、過激な改革を目指した信長とは異なり、有力大名には元からの領地を残しつつ自分の政権に編入する方針を採り、毛利輝元や上杉景勝らとも和睦して天下統一を急いだ。信長が絶対王制を目指したのに対して、秀吉は中央集権と地方分権を組み合わせた封建社会を築こうとしたのである。
 やがて朝廷から豊臣と姓を頂いた秀吉は、関白、太政大臣になり、天正十八年(一五九〇年)の小田原の役によって天下統一を完成する。
 秀吉は、政治的に天下を支配しただけではなく、経済の面でも大坂を中心とした物資と金銭の流通を把握した。文化の面でも茶道や囲碁将棋などに全国的な家元制度を芽生えさせた。これらは徳川幕府に引き継がれ、日本独特の「型の文化」を創り出すことになる。
 秀吉のきらびやかな天下。――それはこの天王山の東側で行われた合戦からはじまったのである。

作:堺屋太一
画:岩井弘


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Comment

NoTitle 

おはようございます。
このあたりの戦い、
家康がどうどこまでかかわったか。
ほんとうのところは知らないから、
このようにしてくわしく教えてもらうと、
ある程度はわかってきてこの後のドラマ楽しみです。
ただテレビはどこをどうどこまで、
詳しくやるかわかりませんから困ります。
そのへんがモノ足らないですよね・・。🤩
  • posted by マーチャン 
  • URL 
  • 2023.08/03 05:20分 
  • [Edit]

NoTitle 

今日は家人と伊勢志摩に向かいますので
訪問だけで失礼します。

応援ぽち
  • posted by よっちん 
  • URL 
  • 2023.08/03 07:09分 
  • [Edit]

こんばんは 

こんばんは。
対戦した場所がジャンクションになっている。
面白いですね。
何となく歴史の悪戯っぽくもありますよ。(笑)
分け目の決戦だったのですからね。
  • posted by 自転車親父 
  • URL 
  • 2023.08/03 20:33分 
  • [Edit]

NoTitle 

ここからの一望をぜひ見てみたいです。
しかし、秀吉の政治手腕もしっかりしたものだったのですね。
応援ぽち2.
  • posted by みかん農家 
  • URL 
  • 2023.08/03 22:47分 
  • [Edit]

皆さんへ 

こんばんは😃🌃
今日もコメントありがとうございました。
天王山という言葉は、ここからきたのでしたね。
当時と様変わりした天王山からの眺めを、秀吉たちが見たらどう思うのでしょうね😅
  • posted by しずか 
  • URL 
  • 2023.08/03 22:51分 
  • [Edit]

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