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2023.08/06 [Sun]
清州を訪ねて(2)清洲会議が行われた清洲城
大手橋を通って清洲城へ。

清洲古城跡の五条川対岸に、平成元年(1989年)に天守閣が建てられ、ふれあい郷土館として郷土文化・文化・歴史・産業展示室を設け、芸能文化館・黒木書院、日本庭園・土蔵・大手門等が作られました。

室町時代、尾張の守護職であった斯波義重が下津城(稲沢市)の別郭として建てたのが清洲城の始まりといわれています。
戦乱により、下津城が焼失後、文明10年(1478年)守護所が清洲に移転することにより、清洲は慶長5年(1610年)の清州越しまで尾張の中心地でした。
弘治元年(1555年)織田信長が那古野城から入城。小牧山城に移るまでの約8年間居城としました。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、信長はこの城から出陣し、今川義元を破りました。
桶狭間の戦いから2年後の1562年(永禄5)、信長と徳川家康との間で会見が持たれ、同盟が締結されたのもこの城で、清洲同盟と呼ばれています。
その後、信長は着々と天下統一の事業を進めていきましたが、,明智光秀の謀反に遭い、夢半ば本能寺の変にて自刃。
信長の跡目を決める清洲会議が清洲城で行われました。
集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人。
滝川一益は関東地方へ出陣中で出席できず、織田家における一益の地位は急落。
織田家の後継者問題では、信長の三男・織田信孝(欠席)を擁立する勝家と、信長の嫡孫にあたる信忠の嫡男・三法師(織田秀信)を擁立する秀吉との対立が起こりましたが、秀吉は光秀討伐の功労者であり、長秀らの支持や、三男であり神戸氏へ養子に出ている信孝よりも血統的な正統性が強いこともあって、三法師が後継者として決まり、織田信孝はその後見人として収まりました。
次に清洲城主となった信長の次男・織田信雄によって清洲城は改修され、城塞都市として過去最大の規模に達します。
その後、豊臣秀次、福島正則と城主を迎え、関ヶ原の戦いでは、東軍の重要な軍事拠点となりましたが、慶長14年(1609年)徳川義直が幼少ながらにして城主になった際、家臣の山下氏勝が、五条川の氾濫などを理由に城の移転を協議。翌年、家康が清洲城廃城と名古屋城築城を命じ、町の建物、町の機能すべてが名古屋に移る「清州越」が行われました。これは、大名の勢力削減のため、家康が移転に伴う費用を諸大名に負担させ、大阪の陣に備えたためともいわれています。

大手門

信長塀

熱田神宮に現存する信長塀を再現したもの。
天主閣の石垣
清洲城の石垣は、「清洲越し」の際、名古屋城に転用されたそう。

清州城と歴代城主
清州城は当初、尾張守護所の下津城(おりづじょう)の別郭として築城されました。
その後、下津城が戦乱で消失したため文明8年(1478)に守護所が清州城へ移されたとされています。
戦国の頃、尾張国は守護代の織田氏が実権を握っていました。尾張の上四郡を支配していた岩倉の織田氏と下四郡を支配した清州の織田氏が争うなかで、清州織田家当主の信友を那古屋城主織田信長公は攻め滅ぼして清州城に入城し、尾張の拠点としました。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元の軍勢を打ち破ったのを手始めに、美濃・近江等の近隣の国々を攻略して着々と天下統一へと歩みを進めていきました。
しかし、天正10年(1582)の本能寺の変によりその志は夢半ばで断たれてしまいました。このように天下統一の礎を築いた織田信長公は郷土の英雄として人々の尊敬を集めています。
清州城は、「関東の巨鎮」と称えられ、尾張はもとより東国の中心地として発展を遂げました。信長の長男の信忠、二男の信雄以降は名だたる武将が城主となりました。
徳川義直の代の慶長15年(1610)徳川家康は、清州の廃都と名古屋遷都を命じ、三年後には、「清須越し」が完了しました。清州城は廃城となり、城下町から、美濃路の宿場町へと姿をかえていきました。
清州城歴代城主
一、織田信長
二、織田信忠
三、織田信雄
四、豊臣秀次
五、福島正則
六、松平忠吉
七、徳川義直
清州町が町制百周年を迎えて平成元年四月、清州のふれあい郷土館として清州城天守閣を再建しました。
平成十七年七月に、西枇杷島町、清洲町、新川町が合併し清須市となった後も、清須市のシンボルとして人々に親しまれています。

現在の清洲城の中は、展示館になっているのですが、清洲城バーチャルウォークや火縄銃体験コーナー、大河ドラマ戦国史など遊び感覚で楽しめるように作られています。


桶狭間に出陣する前、「人間50年下天の内をくらぶれば夢もぼろしのごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と「敦盛」を舞う織田信長公の像。
桶狭間の戦いに勝利した信長は、清須から天下統一への第一歩を踏み出しました。
最上階の展望室からは、新幹線や清洲の街並みやを一望できます。



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清洲古城跡の五条川対岸に、平成元年(1989年)に天守閣が建てられ、ふれあい郷土館として郷土文化・文化・歴史・産業展示室を設け、芸能文化館・黒木書院、日本庭園・土蔵・大手門等が作られました。

室町時代、尾張の守護職であった斯波義重が下津城(稲沢市)の別郭として建てたのが清洲城の始まりといわれています。
戦乱により、下津城が焼失後、文明10年(1478年)守護所が清洲に移転することにより、清洲は慶長5年(1610年)の清州越しまで尾張の中心地でした。
弘治元年(1555年)織田信長が那古野城から入城。小牧山城に移るまでの約8年間居城としました。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、信長はこの城から出陣し、今川義元を破りました。
桶狭間の戦いから2年後の1562年(永禄5)、信長と徳川家康との間で会見が持たれ、同盟が締結されたのもこの城で、清洲同盟と呼ばれています。
その後、信長は着々と天下統一の事業を進めていきましたが、,明智光秀の謀反に遭い、夢半ば本能寺の変にて自刃。
信長の跡目を決める清洲会議が清洲城で行われました。
集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人。
滝川一益は関東地方へ出陣中で出席できず、織田家における一益の地位は急落。
織田家の後継者問題では、信長の三男・織田信孝(欠席)を擁立する勝家と、信長の嫡孫にあたる信忠の嫡男・三法師(織田秀信)を擁立する秀吉との対立が起こりましたが、秀吉は光秀討伐の功労者であり、長秀らの支持や、三男であり神戸氏へ養子に出ている信孝よりも血統的な正統性が強いこともあって、三法師が後継者として決まり、織田信孝はその後見人として収まりました。
次に清洲城主となった信長の次男・織田信雄によって清洲城は改修され、城塞都市として過去最大の規模に達します。
その後、豊臣秀次、福島正則と城主を迎え、関ヶ原の戦いでは、東軍の重要な軍事拠点となりましたが、慶長14年(1609年)徳川義直が幼少ながらにして城主になった際、家臣の山下氏勝が、五条川の氾濫などを理由に城の移転を協議。翌年、家康が清洲城廃城と名古屋城築城を命じ、町の建物、町の機能すべてが名古屋に移る「清州越」が行われました。これは、大名の勢力削減のため、家康が移転に伴う費用を諸大名に負担させ、大阪の陣に備えたためともいわれています。

大手門

信長塀

熱田神宮に現存する信長塀を再現したもの。
天主閣の石垣
清洲城の石垣は、「清洲越し」の際、名古屋城に転用されたそう。

清州城と歴代城主
清州城は当初、尾張守護所の下津城(おりづじょう)の別郭として築城されました。
その後、下津城が戦乱で消失したため文明8年(1478)に守護所が清州城へ移されたとされています。
戦国の頃、尾張国は守護代の織田氏が実権を握っていました。尾張の上四郡を支配していた岩倉の織田氏と下四郡を支配した清州の織田氏が争うなかで、清州織田家当主の信友を那古屋城主織田信長公は攻め滅ぼして清州城に入城し、尾張の拠点としました。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元の軍勢を打ち破ったのを手始めに、美濃・近江等の近隣の国々を攻略して着々と天下統一へと歩みを進めていきました。
しかし、天正10年(1582)の本能寺の変によりその志は夢半ばで断たれてしまいました。このように天下統一の礎を築いた織田信長公は郷土の英雄として人々の尊敬を集めています。
清州城は、「関東の巨鎮」と称えられ、尾張はもとより東国の中心地として発展を遂げました。信長の長男の信忠、二男の信雄以降は名だたる武将が城主となりました。
徳川義直の代の慶長15年(1610)徳川家康は、清州の廃都と名古屋遷都を命じ、三年後には、「清須越し」が完了しました。清州城は廃城となり、城下町から、美濃路の宿場町へと姿をかえていきました。
清州城歴代城主
一、織田信長
二、織田信忠
三、織田信雄
四、豊臣秀次
五、福島正則
六、松平忠吉
七、徳川義直
清州町が町制百周年を迎えて平成元年四月、清州のふれあい郷土館として清州城天守閣を再建しました。
平成十七年七月に、西枇杷島町、清洲町、新川町が合併し清須市となった後も、清須市のシンボルとして人々に親しまれています。

現在の清洲城の中は、展示館になっているのですが、清洲城バーチャルウォークや火縄銃体験コーナー、大河ドラマ戦国史など遊び感覚で楽しめるように作られています。


桶狭間に出陣する前、「人間50年下天の内をくらぶれば夢もぼろしのごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と「敦盛」を舞う織田信長公の像。
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最上階の展望室からは、新幹線や清洲の街並みやを一望できます。



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- at 13:49
- [どうする家康:織田信長(どうする家康)]
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NoTitle
よく描かれていますが
解釈の仕方がマチマチで
見ている側には面白いです。
ただ、私は清洲城には
行ったことがないんですよ。
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