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2023.09/15 [Fri]
石田三成生誕の地を訪ねて(2)三成の産湯井戸
バス停石田から石田会館とは反対の方向、北へ進み、民家の間に挟まれた道を行くと、石田三成産湯の井戸があります。


石田三成の死後、400年の記念事業で、平成12年に復元されました。
三成は、1560年、近江国坂田郡石田村で生まれました。
父・正継は、「村の武士」といわれる土着の豪族で、京極家や、浅井家に仕えた後、帰農したとされています。
三成は、三男として誕生、幼名は佐吉。
長兄は早世し、次兄・正澄は、三成と前後して、秀吉に仕え、出生を遂げる三成を父とともに支えました。

永禄3年(1560年)、石田正継の三男(長男・石田弥治郎は早世しているため、事実上は次男)として近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)で誕生した。幼名は佐吉。 北面武士であった下毛野朝臣の一族、もしくは三浦一族である相模国大住郡石田郷(現・神奈川県伊勢原市石田)の住人石田為久の末裔とされる他、石田村は古くは石田郷ともいい、石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとも言われている。
羽柴秀吉が織田信長に仕えて近江長浜城主となった天正2年(1574年)頃から、父・正継、兄・正澄と共に秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。 秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いた時、これに従軍した。
天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が地位を固めるにつれ、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の功名をあげた(『一柳家記』)。 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも従軍。 同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めた。
豊臣政権下の検地で使われた尺(複製、秀吉清正記念館蔵)。両端に三成の花押がある。
天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下・治部少輔に叙任される。(Wikipediaより)
この辺りを歩いていると、三成に関係する人々の案内板があります。
石田正継


三成の父。
正継は、学問の志が深く、才文武を兼ね、学は和漢を通じ、『万葉集』をひもとき、和歌を詠ずる風流心があったという才人で、醒ヶ井の松尾寺から60巻の書籍を借り読破し、三成にも読ませようとしたという。
三成が豊臣秀吉に仕えると、天正14年(1586年)から16年、三成が堺の奉行となったときに、正継もその代官として三成を補佐した。
文禄4年(1595年)、三成が佐和山城主に封ぜられると、正継も近江国内で300石を食み、常に城にあって、以後は城代として三成留守時の政令を掌った。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、佐和山城の本丸を2,800人で守備した。関ヶ原で西軍が敗れると東軍の1万5,000人が城に押し寄せたが、小早川秀秋らの猛攻に半日抵抗して家臣の多くを脱出させた後、18日に正澄と共に自刃して果てた。
(Wikipediaより)
石田正澄

正継の子で,三成の兄。三成が豊臣秀吉に重く用いられたのにともなって秀吉に仕え,文禄の役(1592~96)には肥前名護屋城に駐屯し,警備に当たった。文禄2年には従五位下・木工頭に叙任。一時,堺の町奉行を務めたこともあるが,豊臣政権下で目立った動きはなく,近江・河内のうちで2万5000石を領するにとどまっている。慶長5(1600)年の関ケ原の戦には,父正継らと三成の本城である佐和山城を守り,小早川秀秋らの攻撃をうけて自刃して果てた。(コトバンクより)
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石田三成の死後、400年の記念事業で、平成12年に復元されました。
三成は、1560年、近江国坂田郡石田村で生まれました。
父・正継は、「村の武士」といわれる土着の豪族で、京極家や、浅井家に仕えた後、帰農したとされています。
三成は、三男として誕生、幼名は佐吉。
長兄は早世し、次兄・正澄は、三成と前後して、秀吉に仕え、出生を遂げる三成を父とともに支えました。

永禄3年(1560年)、石田正継の三男(長男・石田弥治郎は早世しているため、事実上は次男)として近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)で誕生した。幼名は佐吉。 北面武士であった下毛野朝臣の一族、もしくは三浦一族である相模国大住郡石田郷(現・神奈川県伊勢原市石田)の住人石田為久の末裔とされる他、石田村は古くは石田郷ともいい、石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとも言われている。
羽柴秀吉が織田信長に仕えて近江長浜城主となった天正2年(1574年)頃から、父・正継、兄・正澄と共に秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。 秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いた時、これに従軍した。
天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が地位を固めるにつれ、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の功名をあげた(『一柳家記』)。 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも従軍。 同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めた。
豊臣政権下の検地で使われた尺(複製、秀吉清正記念館蔵)。両端に三成の花押がある。
天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下・治部少輔に叙任される。(Wikipediaより)
この辺りを歩いていると、三成に関係する人々の案内板があります。
石田正継


三成の父。
正継は、学問の志が深く、才文武を兼ね、学は和漢を通じ、『万葉集』をひもとき、和歌を詠ずる風流心があったという才人で、醒ヶ井の松尾寺から60巻の書籍を借り読破し、三成にも読ませようとしたという。
三成が豊臣秀吉に仕えると、天正14年(1586年)から16年、三成が堺の奉行となったときに、正継もその代官として三成を補佐した。
文禄4年(1595年)、三成が佐和山城主に封ぜられると、正継も近江国内で300石を食み、常に城にあって、以後は城代として三成留守時の政令を掌った。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、佐和山城の本丸を2,800人で守備した。関ヶ原で西軍が敗れると東軍の1万5,000人が城に押し寄せたが、小早川秀秋らの猛攻に半日抵抗して家臣の多くを脱出させた後、18日に正澄と共に自刃して果てた。
(Wikipediaより)
石田正澄

正継の子で,三成の兄。三成が豊臣秀吉に重く用いられたのにともなって秀吉に仕え,文禄の役(1592~96)には肥前名護屋城に駐屯し,警備に当たった。文禄2年には従五位下・木工頭に叙任。一時,堺の町奉行を務めたこともあるが,豊臣政権下で目立った動きはなく,近江・河内のうちで2万5000石を領するにとどまっている。慶長5(1600)年の関ケ原の戦には,父正継らと三成の本城である佐和山城を守り,小早川秀秋らの攻撃をうけて自刃して果てた。(コトバンクより)
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- [どうする家康:石田三成(どうする家康)]
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NoTitle
石田三成のお話きのうから見せていただいてて、
わからない知らないところばかりでしたが、
勉強しながらそれも何かとです。
いい歳よりで頭が回らない中で苦慮しながら、
いろいろ面白おかしくたのしませてもらってます。
ありがとうございます・・。🤩