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2023.09/23 [Sat]
上田の芳泉寺(2)仙石氏の霊廟
本堂の西側に、上田城主・仙石氏の霊廟があります。

霊廟とは、墓とその霊魂を祀るお堂の一体をいうもので、江戸時代初期から中期にかけ、大名たちは家柄や禄高に応じた規模の霊廟をよく菩提寺などに建てていたそうです。
仙石氏は三代にわたり、84年間上田に在城しました。
真田信幸に代わり上田城主になった小諸城主の仙石忠政は、常福寺を修築し、小諸の菩提寺・宝仙寺をここに移し、その翌年、父・秀久の墓を改装し、秀久の戒名「円覚院殿宝誉道樹大禅定門」に因み、円覚院芳泉寺と改めました。
仙石氏の霊廟は、瓦葺コンクリート造りの塀に四面囲まれ、その中に小諸城主・秀久、忠政、二代城主・政俊、秀久の側室や長子(久忠)の墓があります。
政俊の墓は、総高188cmのやや大型の五輪塔ですが、秀久のものは総高202cmの舟型石塔で、ともに瓦葺宝形造の覆屋に収められています。
仙石秀久、忠政の霊廟

仙石秀久は、信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。
豊臣秀吉の最古参の家臣でしたが、秀吉の死後は、徳川方につきました。

関が原の戦いで東軍として参戦。
徳川秀忠の側近として、第二次上田合戦に参加、真田攻めのために小諸を本陣に定めた秀忠軍に参陣しました。
上田城で、秀忠軍が足止めを食うと、秀久は自身を真田家の人質に出して、秀忠を家康の本陣に向かうように薦め、また関ヶ原本戦に遅参して激怒する家康への謝罪に努めました。このことで、秀忠の信頼を得て、後に秀忠が征夷大将軍に任ぜられると特に重用されるようになり、信濃小諸藩の初代藩主となりました。
秀久は、領地の開拓や整備に取り組み、小諸城を大改修。24年の間に大手門や黒門、二の丸を増築、小諸城を近代城郭として完成させました。
仙石秀久の墓

秀久の次男の仙石秀範は、独断で西軍についた事から、父から廃嫡、勘当されて浪人となり、出家して京都で寺子屋の講師を務めていたといいます。
また、秀久の三男であり、秀範の弟の仙石忠政は、父と共に徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いでは、東軍につき、上田城攻めに参加。この時の功により、徳川秀忠の「忠」の字を拝領して、久政から忠政と改めたといわれています。
仙石政俊は忠政の長男として小諸で生まれ、寛永5年(1628年)、父の死去により家督を継いで第2代上田藩主となりました。41年間の統治の中で、領内に灌漑用の溜池や堰(せぎ)などの築造と改修を積極的に行い、農業の振興や開発等に大きな業績を残しました。
仙石政俊の霊廟

塀の内側には、家臣が献上した名入りの石灯籠18基が並んでいます。

(上田市文化財マップ参照)
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霊廟とは、墓とその霊魂を祀るお堂の一体をいうもので、江戸時代初期から中期にかけ、大名たちは家柄や禄高に応じた規模の霊廟をよく菩提寺などに建てていたそうです。
仙石氏は三代にわたり、84年間上田に在城しました。
真田信幸に代わり上田城主になった小諸城主の仙石忠政は、常福寺を修築し、小諸の菩提寺・宝仙寺をここに移し、その翌年、父・秀久の墓を改装し、秀久の戒名「円覚院殿宝誉道樹大禅定門」に因み、円覚院芳泉寺と改めました。
仙石氏の霊廟は、瓦葺コンクリート造りの塀に四面囲まれ、その中に小諸城主・秀久、忠政、二代城主・政俊、秀久の側室や長子(久忠)の墓があります。
政俊の墓は、総高188cmのやや大型の五輪塔ですが、秀久のものは総高202cmの舟型石塔で、ともに瓦葺宝形造の覆屋に収められています。
仙石秀久、忠政の霊廟

仙石秀久は、信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。
豊臣秀吉の最古参の家臣でしたが、秀吉の死後は、徳川方につきました。

関が原の戦いで東軍として参戦。
徳川秀忠の側近として、第二次上田合戦に参加、真田攻めのために小諸を本陣に定めた秀忠軍に参陣しました。
上田城で、秀忠軍が足止めを食うと、秀久は自身を真田家の人質に出して、秀忠を家康の本陣に向かうように薦め、また関ヶ原本戦に遅参して激怒する家康への謝罪に努めました。このことで、秀忠の信頼を得て、後に秀忠が征夷大将軍に任ぜられると特に重用されるようになり、信濃小諸藩の初代藩主となりました。
秀久は、領地の開拓や整備に取り組み、小諸城を大改修。24年の間に大手門や黒門、二の丸を増築、小諸城を近代城郭として完成させました。
仙石秀久の墓

秀久の次男の仙石秀範は、独断で西軍についた事から、父から廃嫡、勘当されて浪人となり、出家して京都で寺子屋の講師を務めていたといいます。
また、秀久の三男であり、秀範の弟の仙石忠政は、父と共に徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いでは、東軍につき、上田城攻めに参加。この時の功により、徳川秀忠の「忠」の字を拝領して、久政から忠政と改めたといわれています。
仙石政俊は忠政の長男として小諸で生まれ、寛永5年(1628年)、父の死去により家督を継いで第2代上田藩主となりました。41年間の統治の中で、領内に灌漑用の溜池や堰(せぎ)などの築造と改修を積極的に行い、農業の振興や開発等に大きな業績を残しました。
仙石政俊の霊廟

塀の内側には、家臣が献上した名入りの石灯籠18基が並んでいます。

(上田市文化財マップ参照)
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NoTitle
真田幸村はじめとする人物はたびたび今まで、
大河にも出てきていますから知っていても、
このようにしていろいろ見せていただくと、
さらに勉強させられてしまう。あした夜、
たぶんそのへんのところ見られるでしょう・・。
ありがとうございました。🤩