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2023.10/03 [Tue]
家康の側室・阿茶局と旧鈴木家屋敷跡
徳川家康の側室・阿茶局は、於愛の方の死後に、徳川秀忠と松平忠吉を養育し、大坂冬の陣の和議にも貢献した女性として名を残しています。

その阿茶局を預け、家康も度々訪ねたという旧鈴木家屋敷跡は、浜松市東区中郡町にあります。
中郡町周辺は、古くからの稲作地帯で、万斛(まんごく)と呼ばれ、今でも字名(あざな)にその名称が残っています。
家康が遠江に侵攻してきた際、米の石高である(万石)と同音であることから縁起の良い土地であるとされ、旧万斛村の鈴木権右衛門は、万斛村とその周辺の村々の代官の役割を与えられました。
室町時代から続く家柄の鈴木家は、江戸時代にわたって、藩主と直接謁見できる力のある庄屋「古独礼圧屋」の(こどくれいしょうや)の地位にあり、中でも「独礼総代」(どくれいそうだい)という、より大きな権威を与えられていました。
家康は鈴木家に側室の阿茶局を預け、鷹狩をした帰りなどに鈴木家に立ち寄っては彼女を寵愛し、阿茶局は、地域の情報を家康に伝えていたとされています。
阿茶局
父の飯田直政は甲斐武田家の家臣であった。今川家の家臣で主家没落後に一条信龍に属した神尾忠重に嫁ぎ、二男(神尾守世、神尾守繁)をもうけるが、天正5年(1577年)7月に忠重は亡くなる。
その後、天正7年(1579年)に家康に召された。戦場においても幾度となく家康に供奉し、小牧・長久手の戦いの陣中で一度懐妊するも流産した。天正17年(1589年)に亡くなった西郷局の替わりに徳川秀忠と松平忠吉を養育しており、長男の神尾守世も秀忠に近侍した。
才知に長け、奥向きの諸事一切を家康より任されており、慶長16年(1611年)に徳川義直が疱瘡を患った際に、家康がその症状が軽いことを伝える自筆書状の宛先には、実母のお亀の方以外に阿茶局の名もある。また慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、常高院や大蔵卿局と会見して和議の成立に尽力した。
家康の死後に江戸に移り、竹橋に屋敷と300石の化粧料が与えられた(後に神田鎌倉町に移転)。雲光院と号したが、剃髪はせず、秀忠の没後に正式に剃髪したともされる。元和6年(1620年)に徳川和子入内の際に母親代わりの守役を務めた功により、後水尾天皇より従一位を授けられ、一位局・一位尼と称されるようになった。
寛永7年(1630年)の秀忠・家光上洛時に供奉する。寛永14年(1637年)に83歳で死去し、雲光院(東京都江東区三好)に葬られた。戒名は雲光院殿従一位尼公正誉周栄大姉。(Wikipediaより)
旧鈴木家屋敷屋敷門(表門)

鈴木家屋敷の周囲には堀がめぐらされており、この門は江戸時代初期に建てられた特定の身分ある者だけがくぐることができた門とされています。





屋敷内の建物は建て替えが行なわれていますが、庄屋屋敷の面影が残っています。

2011年(平成23年)に浜松市に寄贈され、現在はレストランや交流スペースとして使用されています。
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その阿茶局を預け、家康も度々訪ねたという旧鈴木家屋敷跡は、浜松市東区中郡町にあります。
中郡町周辺は、古くからの稲作地帯で、万斛(まんごく)と呼ばれ、今でも字名(あざな)にその名称が残っています。
家康が遠江に侵攻してきた際、米の石高である(万石)と同音であることから縁起の良い土地であるとされ、旧万斛村の鈴木権右衛門は、万斛村とその周辺の村々の代官の役割を与えられました。
室町時代から続く家柄の鈴木家は、江戸時代にわたって、藩主と直接謁見できる力のある庄屋「古独礼圧屋」の(こどくれいしょうや)の地位にあり、中でも「独礼総代」(どくれいそうだい)という、より大きな権威を与えられていました。
家康は鈴木家に側室の阿茶局を預け、鷹狩をした帰りなどに鈴木家に立ち寄っては彼女を寵愛し、阿茶局は、地域の情報を家康に伝えていたとされています。
阿茶局
父の飯田直政は甲斐武田家の家臣であった。今川家の家臣で主家没落後に一条信龍に属した神尾忠重に嫁ぎ、二男(神尾守世、神尾守繁)をもうけるが、天正5年(1577年)7月に忠重は亡くなる。
その後、天正7年(1579年)に家康に召された。戦場においても幾度となく家康に供奉し、小牧・長久手の戦いの陣中で一度懐妊するも流産した。天正17年(1589年)に亡くなった西郷局の替わりに徳川秀忠と松平忠吉を養育しており、長男の神尾守世も秀忠に近侍した。
才知に長け、奥向きの諸事一切を家康より任されており、慶長16年(1611年)に徳川義直が疱瘡を患った際に、家康がその症状が軽いことを伝える自筆書状の宛先には、実母のお亀の方以外に阿茶局の名もある。また慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、常高院や大蔵卿局と会見して和議の成立に尽力した。
家康の死後に江戸に移り、竹橋に屋敷と300石の化粧料が与えられた(後に神田鎌倉町に移転)。雲光院と号したが、剃髪はせず、秀忠の没後に正式に剃髪したともされる。元和6年(1620年)に徳川和子入内の際に母親代わりの守役を務めた功により、後水尾天皇より従一位を授けられ、一位局・一位尼と称されるようになった。
寛永7年(1630年)の秀忠・家光上洛時に供奉する。寛永14年(1637年)に83歳で死去し、雲光院(東京都江東区三好)に葬られた。戒名は雲光院殿従一位尼公正誉周栄大姉。(Wikipediaより)
旧鈴木家屋敷屋敷門(表門)

鈴木家屋敷の周囲には堀がめぐらされており、この門は江戸時代初期に建てられた特定の身分ある者だけがくぐることができた門とされています。





屋敷内の建物は建て替えが行なわれていますが、庄屋屋敷の面影が残っています。

2011年(平成23年)に浜松市に寄贈され、現在はレストランや交流スペースとして使用されています。
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NoTitle
こんなお屋敷は浜松にあるんでしたか。
これはたいへん大掛かりなところで、
いまも見せていただいて何かと知識がないと、
いろいろ拝見してもちんぷんかんぷんで、
わからないでしょうけど行きいところですね。
なにしろ鈴木等々なるモノのまず家系図からですね・・。🤩