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大河ドラマに恋して

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大坂冬の陣「鴫野の戦い」

1614年(慶長19)年、方広寺鐘銘事件により、豊臣方と徳川方と対立が激化すると、両家の調整役の
片桐且元は、戦争を避けるために徳川家康との和平交渉に奔走しましたが、家康と交渉している間に、大野治長や淀から家康との内通を疑われるようになり、大坂城を追放されてしまいました。これが徳川方の冬の陣の宣戦理由となり、家康は総勢20万の大軍で、秀頼のいる大阪城を包囲させました。

片桐且元
Katagiri_Katumoto.jpg

一方、豊臣方は、旧豊臣系の大名に味方するよう要請しましたが、応じるものはなく、真田幸村(信繁)後藤又兵衛の他、集められたのは浪人衆の寄せ集めでしたが、それでも10万の兵力になりました。
難攻不落の大阪城を力で攻め落とすのは無理と考えた家康は、大砲で威嚇射撃し、城に通じる坑道を掘り進めるといった心理戦に出ました。大砲の一発が、淀のいる櫓に命中し女房たちが数名吹き飛ばされて亡くなりました。これにはさすがの淀も恐怖に震えたといいます。

次に家康は講和工作を行い、初を豊臣方の代表、側室の阿茶の局を徳川方の代表として講和交渉を進め、12月講和が成立しました。
この時結ばれた講和条件は、二の丸、三の丸の破壊、城の周囲をめぐる水濠を埋めることでした。この時、淀が人質になるか、濠を埋めるかの要求に対し、秀頼と別居すること、すなわち人質になることに反対したのが浅井三姉妹の次女・初だったといいます。
講和が成立すると、家康は外堀だけでなく内堀も埋めてしまい、大阪城は裸城にされてしまいました。

大坂冬の陣において行われた戦いの一つである鴫野(しぎの)今福の戦いの舞台は、大阪の城東区を中心に行われました。

大和川を挟んで、北岸に今福村、南岸に鴫野村があり、鴫野には、徳川軍の上杉景勝、今福には佐竹義宣、豊臣軍には、後藤又兵衛、木村重成らが陣取っていました。

慶長19年(1614年)11月26日、徳川方が豊臣方を攻撃し戦闘が開始。
この地域は低湿地帯や田園で、戦には向いていませんでした。そのため、堤防上のみで戦闘が繰り広げられ、主に銃撃戦であったといいます。

以下、鴫野の戦いの詳細です。

豊臣方は鴫野村に三重に柵を設置し、井上頼次に兵2,000で守備させていた。徳川家康は今福村に付け城を築くため、今福・鴫野の両柵の奪取を命じた。鴫野へは上杉景勝勢5,000、後詰として堀尾忠晴、丹羽長重、榊原康勝が向かった。
11月26日早朝、上杉勢が鴫野の柵を攻撃、上杉麾下の安田能元、須田長義らにより柵は占拠され、井上頼次は討ち死した。豊臣軍では大野治長ら12,000が来援し反撃に転じた。上杉勢一番手は第一の柵まで後退し、二番手の水原親憲らに崩れかかりそうになるところ水原が大声で左右にどくよう指示、そのあとを追いかけてきた豊臣軍に鉄砲隊の一斉射撃を加えた。そこへ安田能元隊が槍を入れ、豊臣軍を撃退した。  (Wikipediaより)

JR鴫野駅から歩いて5分ほどのところにある城東小学校の校門横に、大阪冬の陣・鴫野古戦場の案内板、その後ろに石碑があります。

IMG_3404 鴫野

IMG_3403 鴫野

IMG_3707 B


 鴫野古戦場跡

古代の鴫野周辺は、上町台地を回り込むような河内潟の中に位置する低湿地であったが、堤防の造成などの治水工事が行われるにつれて開発が進み、中世にはいくつかの荘園が設けられていた。『熊野詣日記』に〈しきののわたり〉、『天文日記』に〈シキノツツミ〉とその名がみえる鴫野の地は、大和川や猫間川、平野川などいくつかの川が交錯することから、水上交通の拠点となっていた。慶長19年(1614)の大坂冬の陣に際しては、大坂方が防御のための柵をこのあたりに建設し、これをめぐって、佐竹義宣、上杉景勝らの東軍と後藤基次、井上頼次らの西軍が激しい戦闘をくりひろげたという。一説によると、この戦いが木村重成の初陣であるとされている。なお大正9年(1920)11月には、鴫野古戦場跡を顕彰するため、大阪朝日新聞などで新聞記者をつとめた小説家、漢学者である西村天囚による記念碑が建立されている。

平成七年三月大阪市教育委員会


IMG_3402 鴫野

鴫野古戦場跡の碑のある城東小学校の向かいにある八劒神社

IMG_3397 八劒神社

IMG_3398 八劒神社

大坂冬の陣で、東軍武将・上杉景勝はこの辺りに陣を敷いたそうです。

IMG_3401 冬の陣

当時この辺りは湿地帯で、陣を構える場所がこの辺りしかなかったそうです。

IMG_3387 八劒神社

上杉景勝は、大坂冬の陣においては徳川方に起請文を提出し、先発した直江兼続とともに出陣。二条城において家康と謁見し、鴫野の戦いなどで大功を挙げました。

応永3年(1396年)の創祀と伝えられ、速素盞鳴尊(はやすさのおのみこと)・水波能売神(みずはのめのかみ)を祭神としています。
宝暦年間に京都下鴨の神主が記録した社記によれば、応永のはじめのある夜、鴫野村住民の夢の中に一人の老翁が現れ、「吾は熱田の神なり、跡を此の地に垂れんと欲す。明日汝等出て来て吾を淀川の辺に迎えよ」とのお告げがあったので、翌日、村民十数人を呼んで河辺に来ると小蛇が陸に上がって行ったそうです。その姿は大変悠々としていて、一同がこれに従って行くと、小蛇は川を越えて当地に入り、その留まったところに小さな祠を建てて祀ったのが当社の始まりとされています。
(城東区HPより)

拝殿
IMG_3394 八劒神社

拝殿はガラス張りの近代的な建物です。

中に見えるのは、お食事をお供えする御餞殿(みけでん)

御餞殿
IMG_3395 八劒神社

本殿
IMG_3400 八劒神社

辨天社 戎神社 幸神社
IMG_3390 八劒神社

IMG_3391 八劒神社

境内には、だんじりを保管する蔵もあります。

地車庫
IMG_3388 八劒神社

また、八劔神社は、宮相撲が盛んだったそうで、境内に郷土宮相撲米川部屋頭取碑と、鴫野出身の力士・朝日山四郎右衛門の像があります。

IMG_3393 朝日山

お相撲さんには見えないな~ どこぞの武士かと思いました(^_^;)

IMG_3392 朝日山


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Comment

NoTitle 

おはようございます。
先ほどからゆっくりと記事見せていただいていますが、
いよいよ大河もあとひと月、そして夏の陣。
なんだか寂しくなってまいりますね。いろいろと、
あれこれと言われてきた今年1年。おかげで、何かとまた、
それは楽しむことができて励みにもなりました。
ありがとうございました・・。🤩
  • posted by マーチャン 
  • URL 
  • 2023.12/02 07:06分 
  • [Edit]

NoTitle 

我が家から程近い場所には
大坂夏の陣の「道明寺の戦い」の舞台が
実家の近くには「天王寺・岡山の戦い」の舞台が
あるんですよ^^

応援ぽち
  • posted by よっちん 
  • URL 
  • 2023.12/02 19:14分 
  • [Edit]

こんばんは 

こんばんは。
物凄い戦いだったのでしょうね。
いくつもある合戦の中でも最大級かな。
どちらに就いたかでその後が変わってしまう。
そんな決断をみな迫られたことでしょうね。
  • posted by 自転車親父 
  • URL 
  • 2023.12/02 19:27分 
  • [Edit]

NoTitle 

当時の陣の場所が記されているのですね。
応援ぽち2.
  • posted by みかん農家 
  • URL 
  • 2023.12/02 20:20分 
  • [Edit]

皆様へ 

こんばんは!
今日もコメントありがとうございました。

一口に大坂冬の陣といっても、各地に戦いの舞台があったのがわかります。
どちらに付くべきかの判断がその後の運命を変えてしまったのでしょうね。
よっちんさんのご自宅近くの「道明寺の戦い」の舞台も何年か前に訪ねましたよ😊
  • posted by しずか 
  • URL 
  • 2023.12/02 22:33分 
  • [Edit]

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