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2013.02/11 [Mon]
保科正之
- ジャンル:[テレビ・ラジオ]
- テーマ:[大河ドラマ 八重の桜]
会津松平家初代、陸奥会津藩初代藩主・保科正之は、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍家綱を補佐した人物です。
徳川秀忠の子でありながら、庶子ゆえ、少年時代は不遇ともいえる道を送りますが、異腹の兄・家光に見出されてからは、家光の影となり、徳川幕府を支えていきます。
まずは、正之の出生から辿っていきましょう。
2代将軍・徳川秀忠は、自分の乳母である大姥局に仕えていた侍女のお静と関係を持ち、お静は懐妊しますが、嫉妬深い江を怖れて大奥を下り、兄の神尾嘉右衛門の家で最初の子を堕胎します。しかし、秀忠は、お静のことを忘れられずに、再び大奥に呼び戻し、お静は慶長16年(1611年)再び秀忠の子を懐妊。
江戸白銀丁の四条藤右衛門の貸家、姉婿武村助兵衛の屋敷で幸松(後の保科正之)を出産しますが、6歳年上の江に頭の上がらなかった秀忠は、お静を側室に迎えることなく、幸松は見性院(武田信玄次女、穴山梅雪正室)の元に預けられ、見性院のもとで養育されることになりました。
武家の男子は、7歳から学問と武芸の稽古を始めなければならず、見性院は、最も信頼のおける信州高遠の城主・保科正光に正之を託し、正之は保科正光の養子となります。
「会津松平家譜」によると、正之は次兄の徳川忠長と対面して以来、忠長から大変気に入られて、祖父・徳川家康の遺品を忠長より与えられたといいます。
その後、寛永8年(1631年)正光の跡を継ぎ、21歳で高遠藩3万石の藩主に。
ある時、正之が自分の異母弟と知った家光は、正之の実直な人柄に惚れ、徳川将軍補佐役として幕政に重用し、最上山形、会津の城主としました。
寛永13年(1636年)出羽山形藩20万石を拝領。
寛永20年(1643年)陸奥会津藩23万石と大身の大名に引き立てられ、以後、正之の子孫の会津松平家が幕末まで会津藩主を務めました。
慶安4年(1651年)家光は死ぬ間際に正之を呼び、「肥後よ宗家を頼みおく」と言い残しました。正之は後に『会津家訓十五箇条』を定め、第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守ったといいます。
あの幕末の藩主・松平容保もその一人です。
寛文9年(1669年)嫡男の正経に家督を譲り隠居。
寛文12年(1672年)12月18日、江戸三田の藩邸で死去しました。
正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたのですが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず生涯保科姓を通したそうです。
家光、忠長の兄たちとは、母親が違ってもどちらの兄からも気に入られたという正之は、人柄が良く、有能な人物だったのしょうね。
ちなみに、家光と忠長の関係はというと・・・家光にとって忠長は幼少期から面白くない存在だったようです。
家光が竹千代、忠長が国松という幼名で呼ばれていた頃、秀忠、江の愛情は、容姿端麗な国松に注がれ、病弱で吃音であった家光をさほど可愛がらなかったといいます。そのため竹千代の乳母であったお福(後の春日局)は、竹千代廃嫡の危機を感じ、駿府にいる家康に実情を訴えたところ、家康が長幼の序を明確にし、家光の世継決定が確定したと言われています。
そして成人してからの忠長は、奇行が目立ち、家臣や領民の無差別な殺害や、殺生が禁じられていた静岡浅間神社での猿狩りをしたなどの理由で、蟄居、ついには自刃することとなります。しかし、この裏には家光との確執があり、そのほとんどが信憑性の低い伝聞が元となっているそうです。猿狩りについても、猿による農作物被害に悩まされていた領民のために行ったという見方もされています。
3代将軍家光の正之に対する信頼は、終生続いたといいます。
正之は、次期将軍家綱の烏帽子綾に抜擢され、家光の死後、遺命により甥の4代将軍家綱の補佐役となりました。
正之は、幕府経営に力を注ぎ、武断政治から文治政治へと切り替え役を務めました。家綱時代の三大美事として、末期養子の禁を緩和、殉死の禁止、大名証人制度の廃止がありますが、これには正之が関わっていたのではないかとみられています。
また、当時の江戸は人口増加による水不足に人々は苦しんでいました。そこで、正之は1654年(承応3年)玉川上水を開削し、飲用水の安定供給に貢献しました。
明暦3年(1657年)の明暦の大火では、焼け出された庶民を救済。その後、主要道の道幅を拡幅、火除け空き地として上野に広小路を設置し、芝と浅草に新堀を開削、神田川の拡張などに取り組み、江戸の防災性を向上させました。
また、大火で焼け落ちた江戸城天守の再建については、再建派と反対派に分かれたそうですが、正之は、天守は実用的な意味があまりなく、単に遠くを見るだけのものであり、無駄な出費は避けるべきである。それよりも町屋の復旧に力を入れるべきではないかと再建に反対しました。そのため江戸城天守は再建されず、現在に至っているわけです。
正之は、藩政にも力を注ぎ、明暦元年(1655年)には社倉制を創設。
社倉制とは、飢饉時に貧民を救うために設けた米倉で、朱子学を学ぶうちに正之は社倉制度を知り、設置を検討し始めたといいます。
また、火葬や子殺しを禁じ、それまで行われていた牛裂の刑や釜煮の刑のような残酷な処罰を一切行ってはならぬと命じました。
万治3年(1660年)には、郷頭のそれまで行われていた百姓に対する恣意的な扱いを禁じ、寛文元年には相場米買上制を始め、寛文年間には升と秤の統一を行いました。
寛文元年、会津藩での殉死を禁止。
そして90歳以上の老人には、身分を問わず、終生一人扶持(1日あたり玄米5合)を支給しました。正之は、今から300年以上前に、既に会津藩に日本の年金制度を制定していたのです。正之が、水戸藩主徳川光圀、岡山藩主池田光政と並び江戸初期の三名君と賞されのは当然のことだと思います。
今の日本に、もし彼が存在したら、どのようなリーダーシップをとっていたのでしょうか。
(「保科正之」中公新書 Wikipedea参照)
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徳川秀忠の子でありながら、庶子ゆえ、少年時代は不遇ともいえる道を送りますが、異腹の兄・家光に見出されてからは、家光の影となり、徳川幕府を支えていきます。
まずは、正之の出生から辿っていきましょう。
2代将軍・徳川秀忠は、自分の乳母である大姥局に仕えていた侍女のお静と関係を持ち、お静は懐妊しますが、嫉妬深い江を怖れて大奥を下り、兄の神尾嘉右衛門の家で最初の子を堕胎します。しかし、秀忠は、お静のことを忘れられずに、再び大奥に呼び戻し、お静は慶長16年(1611年)再び秀忠の子を懐妊。
江戸白銀丁の四条藤右衛門の貸家、姉婿武村助兵衛の屋敷で幸松(後の保科正之)を出産しますが、6歳年上の江に頭の上がらなかった秀忠は、お静を側室に迎えることなく、幸松は見性院(武田信玄次女、穴山梅雪正室)の元に預けられ、見性院のもとで養育されることになりました。
武家の男子は、7歳から学問と武芸の稽古を始めなければならず、見性院は、最も信頼のおける信州高遠の城主・保科正光に正之を託し、正之は保科正光の養子となります。
「会津松平家譜」によると、正之は次兄の徳川忠長と対面して以来、忠長から大変気に入られて、祖父・徳川家康の遺品を忠長より与えられたといいます。
その後、寛永8年(1631年)正光の跡を継ぎ、21歳で高遠藩3万石の藩主に。
ある時、正之が自分の異母弟と知った家光は、正之の実直な人柄に惚れ、徳川将軍補佐役として幕政に重用し、最上山形、会津の城主としました。
寛永13年(1636年)出羽山形藩20万石を拝領。
寛永20年(1643年)陸奥会津藩23万石と大身の大名に引き立てられ、以後、正之の子孫の会津松平家が幕末まで会津藩主を務めました。
慶安4年(1651年)家光は死ぬ間際に正之を呼び、「肥後よ宗家を頼みおく」と言い残しました。正之は後に『会津家訓十五箇条』を定め、第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守ったといいます。
あの幕末の藩主・松平容保もその一人です。
寛文9年(1669年)嫡男の正経に家督を譲り隠居。
寛文12年(1672年)12月18日、江戸三田の藩邸で死去しました。
正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたのですが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず生涯保科姓を通したそうです。
家光、忠長の兄たちとは、母親が違ってもどちらの兄からも気に入られたという正之は、人柄が良く、有能な人物だったのしょうね。
ちなみに、家光と忠長の関係はというと・・・家光にとって忠長は幼少期から面白くない存在だったようです。
家光が竹千代、忠長が国松という幼名で呼ばれていた頃、秀忠、江の愛情は、容姿端麗な国松に注がれ、病弱で吃音であった家光をさほど可愛がらなかったといいます。そのため竹千代の乳母であったお福(後の春日局)は、竹千代廃嫡の危機を感じ、駿府にいる家康に実情を訴えたところ、家康が長幼の序を明確にし、家光の世継決定が確定したと言われています。
そして成人してからの忠長は、奇行が目立ち、家臣や領民の無差別な殺害や、殺生が禁じられていた静岡浅間神社での猿狩りをしたなどの理由で、蟄居、ついには自刃することとなります。しかし、この裏には家光との確執があり、そのほとんどが信憑性の低い伝聞が元となっているそうです。猿狩りについても、猿による農作物被害に悩まされていた領民のために行ったという見方もされています。
3代将軍家光の正之に対する信頼は、終生続いたといいます。
正之は、次期将軍家綱の烏帽子綾に抜擢され、家光の死後、遺命により甥の4代将軍家綱の補佐役となりました。
正之は、幕府経営に力を注ぎ、武断政治から文治政治へと切り替え役を務めました。家綱時代の三大美事として、末期養子の禁を緩和、殉死の禁止、大名証人制度の廃止がありますが、これには正之が関わっていたのではないかとみられています。
また、当時の江戸は人口増加による水不足に人々は苦しんでいました。そこで、正之は1654年(承応3年)玉川上水を開削し、飲用水の安定供給に貢献しました。
明暦3年(1657年)の明暦の大火では、焼け出された庶民を救済。その後、主要道の道幅を拡幅、火除け空き地として上野に広小路を設置し、芝と浅草に新堀を開削、神田川の拡張などに取り組み、江戸の防災性を向上させました。
また、大火で焼け落ちた江戸城天守の再建については、再建派と反対派に分かれたそうですが、正之は、天守は実用的な意味があまりなく、単に遠くを見るだけのものであり、無駄な出費は避けるべきである。それよりも町屋の復旧に力を入れるべきではないかと再建に反対しました。そのため江戸城天守は再建されず、現在に至っているわけです。
正之は、藩政にも力を注ぎ、明暦元年(1655年)には社倉制を創設。
社倉制とは、飢饉時に貧民を救うために設けた米倉で、朱子学を学ぶうちに正之は社倉制度を知り、設置を検討し始めたといいます。
また、火葬や子殺しを禁じ、それまで行われていた牛裂の刑や釜煮の刑のような残酷な処罰を一切行ってはならぬと命じました。
万治3年(1660年)には、郷頭のそれまで行われていた百姓に対する恣意的な扱いを禁じ、寛文元年には相場米買上制を始め、寛文年間には升と秤の統一を行いました。
寛文元年、会津藩での殉死を禁止。
そして90歳以上の老人には、身分を問わず、終生一人扶持(1日あたり玄米5合)を支給しました。正之は、今から300年以上前に、既に会津藩に日本の年金制度を制定していたのです。正之が、水戸藩主徳川光圀、岡山藩主池田光政と並び江戸初期の三名君と賞されのは当然のことだと思います。
今の日本に、もし彼が存在したら、どのようなリーダーシップをとっていたのでしょうか。
(「保科正之」中公新書 Wikipedea参照)
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江戸初期の三名君!
こんな言葉が会ったのですね!
>大火で焼け落ちた江戸城天守の再建については、再建派と反対派に分かれたそうですが、正之は、天守は実用的な意味があまりなく、単に遠くを見るだけのものであり、無駄な出費は避けるべきである。それよりも町屋の復旧に力を入れるべきではないかと再建に反対しました。そのため江戸城天守は再建されず、現在に至っているわけです。
感じ入ります!