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2013.06/06 [Thu]
清閑寺の大西郷月照王政復古謀議旧跡
東山にある真言宗の清閑寺は、平家物語の高倉天皇と小督局ゆかりの寺ですが、また西郷隆盛と成就院の僧・月照が密議を交わした場所でもあります。
安政の大獄で月照が追われた際、鹿児島の錦江湾でともに入水自殺しましが、西郷のみ奇跡的に助かりました。
境内には、大西郷月照王政復古謀議旧跡の碑があります。
清閑寺は、幕末に清水寺成就院住職の月照上人と西郷隆盛がしばしば勤王の誅議をした所で、安政5年(1858)月照が水戸藩密使降下に尽力し、幕府から狙われた時、ここで西郷と密かに会い、都落ちの計画を茶室「郭公亭」で行われた。「郭公亭」は鐘楼堂の上方にあったが、荒廃によって惜しくも平成3年に解体された。
清閑寺
歌乃中山と号する真言宗智山派の寺である。ここから清水寺までの山路は、かつては歌の中山と呼ばれる名所で、桜や紅葉の美しさから数多くの歌が詠まれた。
延暦21年(802)に、天台宗の寺として比叡山の紹継法師によって創建され、一条天皇の時代(986~1011)に勅願寺となった。
「平家物語」の非恋で知られる高倉天皇と小督局ゆかりの寺で、平清盛の娘を中宮とする高倉天皇に寵愛されたために清盛の怒りに触れた小督局は、宮中を追われてこの寺で出家させられたと伝えられている。天皇は深く心を痛め、自分が死んだら局のいるこの寺に葬るよう遺言を残し、二十一歳の若さでこの世を去った。背後の山に、六條天皇と高倉天皇の御陵があり、高倉天皇陵の傍らには、天皇の死後、生涯にわたって菩提を弔ったといわれる局の墓がある。
庭にある大きな石からは扇を広げたような形で市内が一望でき、その石が丁度扇の要の位置に当たることから「要石」と呼ばれ、願いをかけると叶うといわれている。
かつては法華三昧堂や宝塔などが並んでいたが、現在は菅原道真が梅樹から彫ったという本尊・十一面観音像を安置する本堂を残すのみである。
(京都市)
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安政の大獄で月照が追われた際、鹿児島の錦江湾でともに入水自殺しましが、西郷のみ奇跡的に助かりました。
境内には、大西郷月照王政復古謀議旧跡の碑があります。
清閑寺は、幕末に清水寺成就院住職の月照上人と西郷隆盛がしばしば勤王の誅議をした所で、安政5年(1858)月照が水戸藩密使降下に尽力し、幕府から狙われた時、ここで西郷と密かに会い、都落ちの計画を茶室「郭公亭」で行われた。「郭公亭」は鐘楼堂の上方にあったが、荒廃によって惜しくも平成3年に解体された。
清閑寺
歌乃中山と号する真言宗智山派の寺である。ここから清水寺までの山路は、かつては歌の中山と呼ばれる名所で、桜や紅葉の美しさから数多くの歌が詠まれた。
延暦21年(802)に、天台宗の寺として比叡山の紹継法師によって創建され、一条天皇の時代(986~1011)に勅願寺となった。
「平家物語」の非恋で知られる高倉天皇と小督局ゆかりの寺で、平清盛の娘を中宮とする高倉天皇に寵愛されたために清盛の怒りに触れた小督局は、宮中を追われてこの寺で出家させられたと伝えられている。天皇は深く心を痛め、自分が死んだら局のいるこの寺に葬るよう遺言を残し、二十一歳の若さでこの世を去った。背後の山に、六條天皇と高倉天皇の御陵があり、高倉天皇陵の傍らには、天皇の死後、生涯にわたって菩提を弔ったといわれる局の墓がある。
庭にある大きな石からは扇を広げたような形で市内が一望でき、その石が丁度扇の要の位置に当たることから「要石」と呼ばれ、願いをかけると叶うといわれている。
かつては法華三昧堂や宝塔などが並んでいたが、現在は菅原道真が梅樹から彫ったという本尊・十一面観音像を安置する本堂を残すのみである。
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- [八重の桜:西郷隆盛(八重の桜)]
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清閑寺の大西郷月照王政復古謀議旧跡!
表現にによって随分内容と意味が違って、掲載されています!何時も凄いと思慮しています!