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2013.10/14 [Mon]
槇村正直がつくった新京極
京都の新京極通は、1872年に京都府参事・槇村正直によって作られた通りです。

豊臣秀吉の都市改造でつくられた隣の寺町通に集まる寺院の境内が、縁日の舞台として利用され、人が多く集まったため、各寺院の境内を整理し、寺町通のすぐ東側に新しく道路を造ったのが新京極通のはじまりで、明治の中頃には見世物小屋や芝居小屋が建ち並びました。

北は三条通から南は四条通に至る約5百メートルのこの通りを新京極通といい、通り名は平安京の最も東に位置した東京極大路(現在の寺町通)の東側に新しく造られた通りであることに由来する。
天正年間(1573~1592年)、豊臣秀吉が市中の多くの寺院を寺町通に集めたことに伴い、その境内が縁日の舞台として利用され、周辺は見物物や催し物を中心に発展するようになった。
明治5年(1872年)、このことに注目した京都府参事槇村正直は、東京遷都で衰えていた市民の士気を盛り上げるべく、寺院の境内を整理して、そこに新たな通りを造った。新京極通の誕生である。
明治10年頃には芝居座、浄瑠璃、寄席などの興行場や飲食店などの多くの店舗が建ち並び、明治30年代には東京の浅草、大阪の千日前とともに、日本三大盛り場として知られるようになった。現在も、修学旅行生をはじめとする多くの観光客や買物客でにぎわう、京都を代表する華街である。
上方落語の始祖・安楽庵策伝が住職を務めた誓願寺、和泉式部の寺として知られる誠心院や、西光寺、蛸薬師堂妙心寺、安養寺、善長時、錦天満宮、染殿院という由緒ある七つの寺院と一つの神社が通りの歴史を今に伝えている。 京都市
槇村正直は、他にも舎密局や女紅場・勧業場などの政策を敢行していきました。
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豊臣秀吉の都市改造でつくられた隣の寺町通に集まる寺院の境内が、縁日の舞台として利用され、人が多く集まったため、各寺院の境内を整理し、寺町通のすぐ東側に新しく道路を造ったのが新京極通のはじまりで、明治の中頃には見世物小屋や芝居小屋が建ち並びました。

北は三条通から南は四条通に至る約5百メートルのこの通りを新京極通といい、通り名は平安京の最も東に位置した東京極大路(現在の寺町通)の東側に新しく造られた通りであることに由来する。
天正年間(1573~1592年)、豊臣秀吉が市中の多くの寺院を寺町通に集めたことに伴い、その境内が縁日の舞台として利用され、周辺は見物物や催し物を中心に発展するようになった。
明治5年(1872年)、このことに注目した京都府参事槇村正直は、東京遷都で衰えていた市民の士気を盛り上げるべく、寺院の境内を整理して、そこに新たな通りを造った。新京極通の誕生である。
明治10年頃には芝居座、浄瑠璃、寄席などの興行場や飲食店などの多くの店舗が建ち並び、明治30年代には東京の浅草、大阪の千日前とともに、日本三大盛り場として知られるようになった。現在も、修学旅行生をはじめとする多くの観光客や買物客でにぎわう、京都を代表する華街である。
上方落語の始祖・安楽庵策伝が住職を務めた誓願寺、和泉式部の寺として知られる誠心院や、西光寺、蛸薬師堂妙心寺、安養寺、善長時、錦天満宮、染殿院という由緒ある七つの寺院と一つの神社が通りの歴史を今に伝えている。 京都市
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新京極!
JTB京都三条支店も近年この新京極に移っています!