大河ドラマに恋して

NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」「八重の桜」「平清盛」「江」の史跡巡りと歴旅紀行

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新島八重 明治のハンサムウーマンへ 女紅場跡

明治4(1871)年、八重、母の佐久、みね(覚馬とうらの娘)は、ともに米沢から京都の覚馬のもとに移住します。

覚馬は、妻のうらと離婚。小田時栄の間に久栄が生まれ、覚馬と時栄は結婚します。

同年、京都では日本最初の博覧会が西本願寺で行われました。

明治5年3月(1872年)には、西本願寺・建仁寺・知恩院を会場として第一回京都博覧会「内国勧業博覧会を開催。外国人観光客もたくさん訪れました。覚馬は、日本で最初の英文ガイドブックを著しました。そして、印刷の際、英語の印字を拾ったのが八重だったそうです。
しかし、覚馬は、この頃脊髄を損傷し、目の不自由に加え、体の自由も利かなくなってしまうのでした。
同年4月、八重は覚馬の推挙で、出頭女(しゅっとうめ)に任ぜられ、九条家河原町別邸内に設けられた京都府立鴨沂高校前身の「新英学校及女紅場」(後の京都府立京都第一高等女学校、現在の鴨沂高校)で、機織りの先生として働きました。

「出頭女」とは、当時の女性教師のことです。のちに「権舎長兼教導試補」と改称されます。
当学校は、新政府からの産業基立金をもとに設立され、英語を学ぶ英学校と女工(手芸・手工)の二科を置きました。

英学校は、主に男子生徒を対象にし、女紅場では、機織り、裁縫、養蚕、紡績、料理、礼儀作法を学ぶ場でした。
八重は、寄宿生を寝泊まりして監督し、昼間は機織りを教え、自らも英語を学んでいたそうです。
そして、学校でトラブルが起きると、府庁へ行き、槇村正直に直接訴えたとか(^_^;)
こういうところがハンサムウーマンといわれる所以なのでしょう。

河原町丸太町のバス停で降りて、鴨川の方に歩いて行くと、女紅場跡の碑があります。

20130413_180592.jpg

この碑を訪ねたのは、4月のある日。

この碑の横を通り、鴨川に降りて行くと、綺麗な景色が広がっていました。

20130413_180594.jpg

桜、柳、雪柳の組み合わせが見事です。

20130413_180597.jpg

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コメント

女紅場! 

以前、他のブログでこの女紅場跡の碑の記事を掲載されていましが、もう一つピンと来ませんでしたが、この記事で明確に理解できました。
ありがとうございました。
  • 四方續夫(しかたつぐお) 
  • URL 
  • 2013年08月09日 06時38分 
  • [編集]
  • [返信]

四方さんへ 

この記事、既に掲載したものと勘違いしていて、昨夜編集し直しました(^_^;)
  • しずか 
  • URL 
  • 2013年08月09日 10時47分 
  • [編集]
  • [返信]

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