大河ドラマに恋して

NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」「八重の桜」「平清盛」「江」の史跡巡りと歴旅紀行

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見捨てられた上月城

天正5年(1577年)10月、信長に命により、播磨に送り込まれた秀吉は、上月城と福原城を落とし、播磨を平定。
信長に報告するため、安土に凱旋すると、信長から褒美に乙御前の茶釜を与えられ、安土で天正6年(1578年)の正月を迎えました。
しかし、同年2月、非常事態が発生。
織田方についていた三木城主・別所長治が信長に反旗を翻し、城に立て籠もったのです。
このことをきっかけに、毛利の反撃、宇喜多直家軍の進攻が始まります。
長治の心変わりの理由は、もともと毛利と夕刻関係にあったこと、信長を心底信用できないこと、播磨を秀吉に奪われるのではという懸念などが挙げられています。
同年3月、信長は秀吉に三木城攻めを命じ、先手を務めた官兵衛は、三木城攻めの本陣を書写山円教寺に移すことを秀吉に進言。

20140422_1132317.jpgIMG_3017 3つの堂

翌4月、宇喜多直家軍が織田方の別所重宗の阿閉城に侵攻。
救援に向かった官兵衛が約500の兵を率いてこれを撃退し、秀吉から感謝状を受けます。
秀吉軍は、三木城の支城・野口城を落城させました。

6月、毛利軍が上月城を5万の兵で囲み、そのリーダーは吉川元春と小早川隆景でした。
一方、上月城を守るのは、尼子勝久率いる遺臣の山中鹿介らわずか700の兵でした。

Kozuki.jpg

秀吉は、救援に向かうため、三木城攻めを中断して、官兵衛、有岡城主・荒木村重らと1万の兵を率いて上月城に向かいました。
秀吉は、高倉山に陣を敷いたのですが、毛利軍のに手が出ず、5月に信長は滝川一益、明智光秀の援軍を送りました。が、彼らは秀吉の下で働くことを嫌い、秀吉は、京にいる信長のもとを訪れ、援軍を要請しました。
しかし、信長は上月城救援を断念するように命じ、高倉山に戻った秀吉は、尼子勝久山中鹿介に脱出を勧めましたが、織田家に従属するよりも、尼子家として滅亡することを選び、断わるのでした。

尼子勝久
amago.jpg

山中鹿介
yamanaka.jpg

官兵衛は秀吉に従い、彼らを残し、書写山の本陣に戻ります。
援軍のない上月城は孤立無援となり、兵糧も底を突き、尼子主従は毛利軍に降伏。
7月3日に勝久が自刃、5日に落城。
鹿介は、毛利軍に捕えられ、備後国鞆の浦に陣取る毛利輝元の下へ護送中に殺害されました。



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Comment

NoTitle 

鹿介かわいそう~~>_<
  • posted by シネマ大好き娘 
  • URL 
  • 2014.04/28 01:08分 
  • [Edit]

山中鹿介のお墓! 

逃げまくった備中松山城のある高梁市にあります。
備中松山城に登った時、見たかったのですが距離があり見学は中止しました。残念!
  • posted by willy_tsuguo_shikata 
  • URL 
  • 2014.04/28 05:37分 
  • [Edit]

シネマ大好き娘さん、四方さんへ 

尼子勝久、山中鹿介の最期は無念だったでしょうね。

四方さんは松山城に行かれていますね。
鹿介のお墓はそこから離れているのですか。
見学断念、残念でしたね。
  • posted by しずか 
  • URL 
  • 2014.04/28 11:01分 
  • [Edit]

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