大河ドラマに恋して

NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」「八重の桜」「平清盛」「江」の史跡巡りと歴旅紀行

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尼崎を訪ねて(1)荒木村重が逃げた行った尼崎城とは?

天正7年(1579年)9月2日夜半、荒木村重は、船で猪名川を下って5、6名の側近を引き連れ、嫡男・村次がいる有岡城を脱出して尼崎城へ(大物城)移っていきました。

現在、尼崎城と呼んでいるのは、元和3(1617)年に戸田氏鉄が築城した尼崎城を指し、村重時代の城は、大物城(別名・尼崎城)でした。
尼崎城大物城とは別の城であるとの説が有力とされているのですが、尼崎城大物城の跡地に築かれたという説もあり、いまだに議論の決着がついていません。

大物城は、細川高国が永正16年(1519年)築城し、「大物崩れ」の舞台となった大物駅付近にあったとされる城で、別名「尼崎城」とも呼ばれていたため、現在の尼崎城とも混同されやすい。
尼崎城は、尼崎へ入封した戸田氏鉄が元和3年(1617年)に築城。本丸の位置は、中世の絵図によると、本興寺の故地に当たり、この「近世尼崎城」は、現在の尼崎市北城内・南城内に位置する。
尼崎市史によると、大物城を取り壊しその上に規模を拡大して近世尼崎城築城と判断し、同一の城としていたが、「江戸時代前期の尼崎城下絵図について」では、大物城は近世尼崎城の北東、大物の西側付近にあったものとの考えが示されている。『尼崎城下絵図』によると、池のような場所の南に「古城」という場所が記載されており、これが大物城のことではないかと推察されている。
現在の阪神電車車庫東端からその東側辺りで、近世尼崎城でいうと城下町にあたる。」
(Wikipediaより抜粋)

1024px-尼崎城5
 画像(Wikipediaより)


大物城域とされる大物主神社を数年前訪ねたことがあります。

尼崎という地名は、平安時代の末から鎌倉時代初めに書かれた史料に、「尼崎浜は大物の南、河を隔て、久安以後の新出地なり」と記されていて、尼崎は久安年間(1145~51)頃に形成された土地なのだそうです。

尼崎の「あま」は、今では海に潜って貝などを採る女性を指しますが、古代・中世においては、漁民・海民を意味していました。また、崎(さき)は岬同様、海に突き出た場所を意味します。漁民・海民が住む海に突き出た土地というのが、地名の由来という説、尼崎は、海の恵み豊かで、「海が幸」が語源とされているという説があります。
その海の恵みにより生きる人々によって建てられた祠が、大物主神社の起源と伝えられます。
大物主という名は、大物主神を祀ること、大きな建材(材木・石材)の集積地だったことから「だいもつ」と名付けられたともいわれています。

平安時代、尼崎の海は、大物浦と呼ばれ、海上交通では要所であるとともに、水害も多く、波の荒い難所でもありました。そこで、安芸の国守であった平清盛が、厳島神社の市杵島姫命を勧請合祀して船旅の安全を願ったといいます。

(尼崎観光HP参照)

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大物主神社の由緒

今を去る二千余前第十代崇仁天皇の御代日本全土が悪疫病にさらされ滅亡寸前になった時帝が御幣を大物主大神に奉り平癒を祈願されたその時大和三輪山に大物主大神が祀られ命を受けて大神八世の御孫大田田根子命の後裔鴨部祝が祖神様を当地に奉斎したのが始まりである。くだって平治元年(1159年)平相国清盛が芸州厳島参拝の時祭神市杵島姫命を此の大物の社に合祀した。当時の大物の沖合は謠曲や浄瑠璃の舟弁慶千本桜などにも謳はれているその頃「若宮」と呼ばれていた鎌倉の始め大物の浦から舟出した源義経主従も神社隣に宿をとり無事平安を祈ったといはれている。その後寛永年間約350年前宗像三柱神の故事に習って多岐都姫命、多紀理姫命を合祀又相殿神として西宮大神、菅原道真公等が配祀されている。(案内板より)

ここは江戸時代、醤油醸造が盛んな地域だったことから、「汁醤油発祥之地」の碑があります。

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また、源義経主従が頼朝から追討され、大物浦からの船出を待つ間この付近に一時身を潜めたということから、境内に義経弁慶隠家跡」の石碑があります。

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謠曲「船弁慶」ゆかりの地

古典「平家物語」には頼朝と不和になった源義経が武蔵坊弁慶ら郎党と共に西国へ向うため大物浦(尼崎市)から船出したものの、烈しい風浪のため押し戻されたことが書かれ、これは謠曲「船弁慶」に脚色されているが、そのとき一時身をひそめたところが、この若宮神社(大物主命を祀り大物主神社ともいう)付近だと伝える。神崎川の流域にあり「九洲宗像大社」又厳島神社の祭神である。
宗像三柱をも祀ってあり、かって大物の浦はこの社前まで通っていたと伝えられている。
なお義経は出帆を前に愛妾静御前と別れを惜しんだといわれ、近くに”静名残りの橋碑”もある。(案内板より)

※案内板の説明が一部訂正されています。
この橋碑は現在、辰巳八幡神社の境内にあります。

しかし、大物城に関する記載はありませんでした。



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コメント

NoTitle 

立派な、石碑ですね~
  • シネマ大好き娘 
  • URL 
  • 2014年06月06日 03時09分 
  • [編集]
  • [返信]

尼崎城! 

>現在、尼崎城と呼んでいるのは、元和3(1617)年に戸田氏鉄が築城した尼崎城を指し、村重時代の城は、大物城(別名・尼崎城)でした。
尼崎城と大物城とは別の城であるとの説が有力とされているのですが、尼崎城が大物城の跡地に築かれたという説もあり、いまだに議論の決着がついていません。
そうだったのですね!どうもおかしく思っていました。
ありがとうございました。
  • willy_tsuguo_shikata 
  • URL 
  • 2014年06月06日 03時50分 
  • [編集]
  • [返信]

シネマ大好き娘さんへ 

石碑マニアになりつつあります(^_^;)
  • しずか 
  • URL 
  • 2014年06月06日 14時41分 
  • [編集]
  • [返信]

四方さんへ 

昨年、伊丹を観光した時は下調べが不十分でした。
が、その後調べてみたら、過去に歩いたエリアが、村重時代の城跡ではないかと気づきました。
  • しずか 
  • URL 
  • 2014年06月06日 14時44分 
  • [編集]
  • [返信]

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