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2023.05/25 [Thu]
浅井家の祈願寺・小谷寺
小谷城跡から小谷寺へと自転車を進めて行きました。
小谷寺は、小谷山の麓にあり、浅井家の祈願寺としてお市の方や浅井三姉妹もたびたび詣でたと伝わります。
小谷落城の際、本尊以外は焼失してしまいましたが、後に長浜城主となった豊臣秀吉により再建されました。


如意輪観音像や両界曼荼羅双幅は長浜市指定文化財となっています。

小谷寺は、今から約1280年前、聖武天皇の神亀5年(728)、加賀白山の開祖・泰澄上人が、白山から伊吹山までの峰峰に修験道場を開き、その時小谷山に建てられた坊舎のなかのひとつでした。そのころは常勝寺と言われていましたが、これが現在の小谷寺の開創だと言われています。
開山当時の常勝山は、永享元年(1429)後花園天皇より如意輪山という勅額をいただき勅願寺になりました。
1524年(大永4年)]ごろ、浅井亮政が小谷山の上に城を築きました。この時、寺領交換が行われ六坊一山全部北谷地区跡(小谷山の東のふもと)に降りてきたようです。浅井氏はここを祈願寺と定め、仏田を寄付して寺号を小谷寺と改めました。しかし、1573年(天正元年)小谷落城の時、お寺も本尊以外はことごとく焼かれてなくなってしまいました。
1593年(文禄2年)、豊臣秀吉によって現在地に小谷寺が再建され、四十四石余りの朱印を与え保護され、その後徳川家康は寺領四十余石と定め援護したと伝えています。(滋賀びわ湖観光情報サイトより)
小谷寺梵鐘

承応4年(1655)の制作

小谷神社

もともと、小谷城主要部の最奥にある山王丸にあった「山王社」である。
湖北町の神社に「合祀されたり、小谷城登山口に遷座したりして、昭和49年(1974)現地に移された。


境内のお地蔵様

地蔵菩薩

境内図

裏山にある浅井長政の供養塔「浅井長政公之塚」を目指して、山道を登って行きました。

ここから6分と書かれていますが、行きは歩きにくい上り坂なので、10分以上はかかりました(^0^;)

やっと見えて来ました!

明治44年(1911)に建立された供養塔で、正面には「贈正二位浅井長政公之塚」と書かれ、笠には、浅井家の裏紋「井桁の紋」が刻まれています。



帰りは下り坂ですが、足元に要注意です(^_^;

山門脇の大きな松の切り株は、お市の方が植えたものと伝えられています。

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小谷寺は、小谷山の麓にあり、浅井家の祈願寺としてお市の方や浅井三姉妹もたびたび詣でたと伝わります。
小谷落城の際、本尊以外は焼失してしまいましたが、後に長浜城主となった豊臣秀吉により再建されました。


如意輪観音像や両界曼荼羅双幅は長浜市指定文化財となっています。

小谷寺は、今から約1280年前、聖武天皇の神亀5年(728)、加賀白山の開祖・泰澄上人が、白山から伊吹山までの峰峰に修験道場を開き、その時小谷山に建てられた坊舎のなかのひとつでした。そのころは常勝寺と言われていましたが、これが現在の小谷寺の開創だと言われています。
開山当時の常勝山は、永享元年(1429)後花園天皇より如意輪山という勅額をいただき勅願寺になりました。
1524年(大永4年)]ごろ、浅井亮政が小谷山の上に城を築きました。この時、寺領交換が行われ六坊一山全部北谷地区跡(小谷山の東のふもと)に降りてきたようです。浅井氏はここを祈願寺と定め、仏田を寄付して寺号を小谷寺と改めました。しかし、1573年(天正元年)小谷落城の時、お寺も本尊以外はことごとく焼かれてなくなってしまいました。
1593年(文禄2年)、豊臣秀吉によって現在地に小谷寺が再建され、四十四石余りの朱印を与え保護され、その後徳川家康は寺領四十余石と定め援護したと伝えています。(滋賀びわ湖観光情報サイトより)
小谷寺梵鐘

承応4年(1655)の制作

小谷神社

もともと、小谷城主要部の最奥にある山王丸にあった「山王社」である。
湖北町の神社に「合祀されたり、小谷城登山口に遷座したりして、昭和49年(1974)現地に移された。


境内のお地蔵様

地蔵菩薩

境内図

裏山にある浅井長政の供養塔「浅井長政公之塚」を目指して、山道を登って行きました。

ここから6分と書かれていますが、行きは歩きにくい上り坂なので、10分以上はかかりました(^0^;)

やっと見えて来ました!

明治44年(1911)に建立された供養塔で、正面には「贈正二位浅井長政公之塚」と書かれ、笠には、浅井家の裏紋「井桁の紋」が刻まれています。



帰りは下り坂ですが、足元に要注意です(^_^;

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2023.05/24 [Wed]
浅井三姉妹を匿ったという実宰院
長浜の実宰院は、浅井長政の姉にあたる阿久姫が昌安見久尼と称して出家した庵でしたが、小谷山実宰院と改称され、宗派も曹洞宗に改宗し、現在に至っています。

小谷城落城の際、長政は姉である見久尼に浅井三姉妹と母お市の方を匿ってもらうよう依頼し、三姉妹とお市の方はともに城を脱出し、実宰院にて匿われたとされています。



実宰院と昌安見久尼の由来
本寺は、鎌倉以前の創建といわれ、実才庵と称し天台宗であったが、その後、小谷山実宰院と改められ、曹洞宗に属している。
小谷山に居城を構えた浅井の二代目久政の長女、阿久姫は仏道修行を志し、出家され昌安見久尼(しょうあんけんきゅうに)と申した。父、久政は当村庄屋平野左近助にたのみ状をつかわし、天文11年3月5日、当時無住と化していたこの庵を再興させた。
寺伝によると、ご本尊は宇多天皇のご持物観世音菩薩であり、尼の座像は豊臣秀吉の室、淀君の寄進のもので、ともに寺宝として衆人の拝むところである。また、長政とお市の方の間に生まれていた悲運の茶々、おはつ、おこうの三人の姫は、戦国の乱世この庵に匿まれ、また、浅井家終焉の際には尼自らが養育されるところとなった。
当時、村人は幼い姫たちの悲しみや寂しさを村の行事の中にお誘いし、分ち合ってなぐさめたと伝え聞いている。また、苔むす庭園は、室町時代の築造である。
Wikipediaによると、
昌安見久尼(しょうあんけんきゅうに、天文7年(1538年) - 天正13年(1585年))は、戦国時代の女性。名は阿久あくであり、昌安見久尼は戒名。
浅井久政の長女だが、庶子のため祖父・浅井亮政の養女となった。生母は亮政の侍女と伝わるが定かではない。兄弟姉妹に浅井長政、京極マリアら多数。
母とともに実宰院(当時は実西庵)に移り住み、母の死後庵主となる。寺伝によれば、彼女は身長5尺8寸(176cm)・体重28貫(105kg)の大女であったため、嫁入りを諦めて、天文11年(1542年)に出家し、小谷城の南4kmの平塚村に庵を建てて移住し、実西庵の開基者となったとされる。
しかし、阿久が実際に出家したのは幼少期とされ、出家の理由としては疑わしいが、成長した彼女が長身であったことからの言い伝えかもしれない。
豊臣秀吉によって実西庵に庵料として50石の田畑を与えられ、三霊殿を創営して浅井三代を祀ったという。江戸時代に入っても秀吉の与えた50石は徳川秀忠の御朱印状で認められている。
実宰院に伝わる位牌によれば、天正13年(1585)に没している。実宰院本堂には江戸時代中期に作られた昌安見久尼の木造が安置されている。
逸話
実宰院境内にある花一輪に2個ずつ実をつけるという双子の梅は、阿久が出家するときに弟の長政が贈ったものと伝えられている。
小谷落城(小谷城の戦い)時の浅井三姉妹(茶々・初・江)について、通説ではお市の方と共に織田軍が身柄を引き取ったとされるが、長政は落城に先立って4人を実西庵に逃がし、阿久に養育を依頼したとの伝承がある。その後、実西庵にやって来た織田軍の残党狩りに対して、阿久はとっさに自身の法衣の中に三姉妹を匿ったと伝えられている。
この逸話を裏付ける史料はないものの、実宰院に伝わる慶長2年(1597年)5月1日付けの豊臣家奉行連署状が実西庵と豊臣秀吉に深い繋がりがあったことを示しており、秀吉から庵料を与えられたことと併せて、茶々との関係を暗示していると言われている。なお、三姉妹を保護したのは小谷落城時ではなく茶々たちの居場所が不明な時期、北庄落城後ではないかとも言われている。

こちらを訪ねた時、ちょうどご住職が境内の庭の草取りをされており、私たちに気付くと、本堂に案内してくださり、通常非公開の昌安見久尼木像を見せてくださいました。

身長5尺8寸(176cm)・体重28貫(105kg)の大女であったという寺伝にぴったりのふくよかな感じのする像でした。

実宰院と昌安見久尼についての詳しい説明もしてくださり、非常に有り難かったです。
本堂裏にある昌安見久尼の墓


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小谷城落城の際、長政は姉である見久尼に浅井三姉妹と母お市の方を匿ってもらうよう依頼し、三姉妹とお市の方はともに城を脱出し、実宰院にて匿われたとされています。



実宰院と昌安見久尼の由来
本寺は、鎌倉以前の創建といわれ、実才庵と称し天台宗であったが、その後、小谷山実宰院と改められ、曹洞宗に属している。
小谷山に居城を構えた浅井の二代目久政の長女、阿久姫は仏道修行を志し、出家され昌安見久尼(しょうあんけんきゅうに)と申した。父、久政は当村庄屋平野左近助にたのみ状をつかわし、天文11年3月5日、当時無住と化していたこの庵を再興させた。
寺伝によると、ご本尊は宇多天皇のご持物観世音菩薩であり、尼の座像は豊臣秀吉の室、淀君の寄進のもので、ともに寺宝として衆人の拝むところである。また、長政とお市の方の間に生まれていた悲運の茶々、おはつ、おこうの三人の姫は、戦国の乱世この庵に匿まれ、また、浅井家終焉の際には尼自らが養育されるところとなった。
当時、村人は幼い姫たちの悲しみや寂しさを村の行事の中にお誘いし、分ち合ってなぐさめたと伝え聞いている。また、苔むす庭園は、室町時代の築造である。
Wikipediaによると、
昌安見久尼(しょうあんけんきゅうに、天文7年(1538年) - 天正13年(1585年))は、戦国時代の女性。名は阿久あくであり、昌安見久尼は戒名。
浅井久政の長女だが、庶子のため祖父・浅井亮政の養女となった。生母は亮政の侍女と伝わるが定かではない。兄弟姉妹に浅井長政、京極マリアら多数。
母とともに実宰院(当時は実西庵)に移り住み、母の死後庵主となる。寺伝によれば、彼女は身長5尺8寸(176cm)・体重28貫(105kg)の大女であったため、嫁入りを諦めて、天文11年(1542年)に出家し、小谷城の南4kmの平塚村に庵を建てて移住し、実西庵の開基者となったとされる。
しかし、阿久が実際に出家したのは幼少期とされ、出家の理由としては疑わしいが、成長した彼女が長身であったことからの言い伝えかもしれない。
豊臣秀吉によって実西庵に庵料として50石の田畑を与えられ、三霊殿を創営して浅井三代を祀ったという。江戸時代に入っても秀吉の与えた50石は徳川秀忠の御朱印状で認められている。
実宰院に伝わる位牌によれば、天正13年(1585)に没している。実宰院本堂には江戸時代中期に作られた昌安見久尼の木造が安置されている。
逸話
実宰院境内にある花一輪に2個ずつ実をつけるという双子の梅は、阿久が出家するときに弟の長政が贈ったものと伝えられている。
小谷落城(小谷城の戦い)時の浅井三姉妹(茶々・初・江)について、通説ではお市の方と共に織田軍が身柄を引き取ったとされるが、長政は落城に先立って4人を実西庵に逃がし、阿久に養育を依頼したとの伝承がある。その後、実西庵にやって来た織田軍の残党狩りに対して、阿久はとっさに自身の法衣の中に三姉妹を匿ったと伝えられている。
この逸話を裏付ける史料はないものの、実宰院に伝わる慶長2年(1597年)5月1日付けの豊臣家奉行連署状が実西庵と豊臣秀吉に深い繋がりがあったことを示しており、秀吉から庵料を与えられたことと併せて、茶々との関係を暗示していると言われている。なお、三姉妹を保護したのは小谷落城時ではなく茶々たちの居場所が不明な時期、北庄落城後ではないかとも言われている。

こちらを訪ねた時、ちょうどご住職が境内の庭の草取りをされており、私たちに気付くと、本堂に案内してくださり、通常非公開の昌安見久尼木像を見せてくださいました。

身長5尺8寸(176cm)・体重28貫(105kg)の大女であったという寺伝にぴったりのふくよかな感じのする像でした。

実宰院と昌安見久尼についての詳しい説明もしてくださり、非常に有り難かったです。
本堂裏にある昌安見久尼の墓


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2023.05/23 [Tue]
結城秀康を祀る天神社と徳川ゆかりの息神社
中村家住宅から舞阪駅に向かう途中で通りかかった天神社


中村家の氏神で、元々中村家の敷地内にありましたが、現在は中村家住宅の北西に移されています。
中村家住宅「天神社跡地」


明治13年より昭和33年まで鎮座
弘化2年(1854)津山藩8代藩主 松平齋民(なりたみ)公が再建したもの。
現在は中村家住宅の北西に移されている。
釘隠しは津山藩 上屋敷 鍜治橋屋敷のものを使用した。
こちらは、松平秀康(結城秀康)をお祀りしている神社です。

結城 秀康(ゆうき ひでやす、松平 秀康〈まつだいら ひでやす〉、天正2年(1574年)2月8日 - 慶長12年(1607年)閏4月8日)は、日本の武将、大名。越前国北荘藩(福井藩)初代藩主。徳川家康の次男。越前松平家の祖。豊臣秀吉の養子となり羽柴秀康を、結城晴朝の養子となり結城秀康を名乗り、関ヶ原の戦い後、松平姓に復した。
天正2年(1574年)2月8日、徳川家康の次男として遠江国敷知郡宇布見村で生まれた。母は永見吉英の娘・於古茶(長勝院)。幼名は於義伊(於義丸 / 義伊丸 / 義伊松)と名づけられた。
誕生地は、今川氏の時代より代官や浜名湖周辺の船・兵糧の奉行を務める源範頼の系譜である領主・中村源左衛門正吉の屋敷であった。現存する同屋敷(建築物は江戸初期)内には、家康お手植えの松「秀康の胞衣塚」が残る。この縁により、のちの歴代福井藩主は参勤交代の際、中村家で供応を受ける慣例が続いた。
伝承では、秀康は双子で誕生し、もう一人はすぐに亡くなったとする言い伝えがある。
家康の正室・築山殿は長勝院が家康の子供を妊娠することについて、承認しなかったため浜松城内から退去させられたとされる。それは正妻としての権限であった。正妻は、別妻や妾として承知するどうかの権限を持っていたと考えられる。築山殿は長勝院を家康の妾とすることを承知しておらず、にもかかわらず妊娠したために、女房衆から追放したのである。それが江戸時代になると、妻の嫉妬などという、矮小化した理解になっている。秀康を妊娠した長勝院は重臣の本多重次の差配により出産にいたっている。城内から追放されたということは、生まれてくる子供を家康の子供として承認しないことを意味していた。
秀康は、重次や中村源左衛門のもとで育てられたという。築山殿が承認しない子供であったため、家康もまた認知できなかった。そのため家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。その対面も、あまりの冷遇を受ける異母弟を不憫に思った兄・松平信康による取りなしで実現したものであったという。ただ、父子対面はあったかもしれないが、それで家康の子として認知されたわけではなかった。築山殿が死去してから秀康は家康の子として認知されたのである。
冷遇の理由は、築山殿を憚ったためとも、双子で生まれてきたことにあるともされるが、寛永11年(1634年)に書かれた『中村家御由緒書』には「本多作左衛門が家康に委細を言上に及んだところ、家康には何か考えることがあり、お取り上げが難しいということになり」とだけ書かれている。研究者の小楠和正は武田勝頼との戦いに直面していたために家康は結城秀康を浜松城に引き取る機会も、対面する機会も持てなかったのではないかと推定している。
天正7年(1579年)、武田勝頼との内通疑惑から織田信長の命令により、兄・松平信康が切腹させられる(近年では信康が家康と対立したために切腹させられた、ともされる)。このため、次男である結城秀康は本来ならば徳川氏の次の後継者となるはずであった。
しかし、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和睦の条件として、結城秀康は秀吉のもとへ養子(徳川家や本願寺の認識、秀吉側の認識は人質)として送られ、家康の次の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされた。母親の身分は徳川秀忠の方が上であり、信康切腹前に生まれた秀忠が当初から後継者だったと考えられる。(Wikipediaより)

天神社
御祭神
菅原道真命
後醍醐天皇命
倉稲御魂神
岩長比賣神
松平秀康卿命
由緒
天喜4(1056)年天満天神の神夢により当郷の人民危機を逃れ、神霊を勧請し学問の神、産土の神として祀る。以来、永正9(1512)年 中村左衛門太夫正継 神主に任じ、天文20(1551)年社殿再建。
天正2(1574)年代官 中村家にて徳川家康公次男・越前中納言松平秀康公が誕生。当社を産土神として崇敬社領御寄付。明治7年浜松県令により近隣郷社・息神社境内へ迂座。明治13年官許を経て中村東海氏宅地の内、二畝歩を分割寄付したことにより往古の社地へ復社し現在に至る。

この中には秋葉灯籠が保存されています。

そして、こちらは息神社。

こちらも徳川家ゆかりの神社です。

「いきじんじゃ」ではなく、「おきじんじゃ」と読むそう。


慶応2年(705)祭神である二本の風神は、イザナギとイザナミの息から生まれたとされています。
神社名のあやかり、風邪や喘息など、息の病の治癒を祈願する人もいるそう。
息神社
祭神 志那都比古神
志那都比賣神
宇迦之御魂神
猿田毘古神
大宮比賣神
由緒
文武天皇慶雲2年(705年)の 勧請、延喜式神名帳所載式 内社仁寿2年(852年)従五位 下を受け官社に列せらる 中古山城国稲荷山の三神 を迎え米大明神と称す
徳川氏統一後諸政緒に就 くに至り慶安元年(1648年) 徳川家光公より朱印拾石 下附せられ安政七年(1860年) 郷社に列す
明治28年(1895年)5月 内大臣より許可を得息神社に復帰す

現在残されている棟札によると、
「文亀元年(1501)中村家14代の中村正實社殿再建。
天正14年(1586)徳川家康が本多重次(作左衛門)に命じて、社殿葺替えを行わせた。
家康が秀康の開運を祈願して息神社をその産土神に定めた。
徳川幕府から、朱印状により、神領10石を認められた。」
ことなどが記録されているそうです。
境内社

これはまた変わった建物ですね(^0^;)

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中村家の氏神で、元々中村家の敷地内にありましたが、現在は中村家住宅の北西に移されています。
中村家住宅「天神社跡地」


明治13年より昭和33年まで鎮座
弘化2年(1854)津山藩8代藩主 松平齋民(なりたみ)公が再建したもの。
現在は中村家住宅の北西に移されている。
釘隠しは津山藩 上屋敷 鍜治橋屋敷のものを使用した。
こちらは、松平秀康(結城秀康)をお祀りしている神社です。

結城 秀康(ゆうき ひでやす、松平 秀康〈まつだいら ひでやす〉、天正2年(1574年)2月8日 - 慶長12年(1607年)閏4月8日)は、日本の武将、大名。越前国北荘藩(福井藩)初代藩主。徳川家康の次男。越前松平家の祖。豊臣秀吉の養子となり羽柴秀康を、結城晴朝の養子となり結城秀康を名乗り、関ヶ原の戦い後、松平姓に復した。
天正2年(1574年)2月8日、徳川家康の次男として遠江国敷知郡宇布見村で生まれた。母は永見吉英の娘・於古茶(長勝院)。幼名は於義伊(於義丸 / 義伊丸 / 義伊松)と名づけられた。
誕生地は、今川氏の時代より代官や浜名湖周辺の船・兵糧の奉行を務める源範頼の系譜である領主・中村源左衛門正吉の屋敷であった。現存する同屋敷(建築物は江戸初期)内には、家康お手植えの松「秀康の胞衣塚」が残る。この縁により、のちの歴代福井藩主は参勤交代の際、中村家で供応を受ける慣例が続いた。
伝承では、秀康は双子で誕生し、もう一人はすぐに亡くなったとする言い伝えがある。
家康の正室・築山殿は長勝院が家康の子供を妊娠することについて、承認しなかったため浜松城内から退去させられたとされる。それは正妻としての権限であった。正妻は、別妻や妾として承知するどうかの権限を持っていたと考えられる。築山殿は長勝院を家康の妾とすることを承知しておらず、にもかかわらず妊娠したために、女房衆から追放したのである。それが江戸時代になると、妻の嫉妬などという、矮小化した理解になっている。秀康を妊娠した長勝院は重臣の本多重次の差配により出産にいたっている。城内から追放されたということは、生まれてくる子供を家康の子供として承認しないことを意味していた。
秀康は、重次や中村源左衛門のもとで育てられたという。築山殿が承認しない子供であったため、家康もまた認知できなかった。そのため家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。その対面も、あまりの冷遇を受ける異母弟を不憫に思った兄・松平信康による取りなしで実現したものであったという。ただ、父子対面はあったかもしれないが、それで家康の子として認知されたわけではなかった。築山殿が死去してから秀康は家康の子として認知されたのである。
冷遇の理由は、築山殿を憚ったためとも、双子で生まれてきたことにあるともされるが、寛永11年(1634年)に書かれた『中村家御由緒書』には「本多作左衛門が家康に委細を言上に及んだところ、家康には何か考えることがあり、お取り上げが難しいということになり」とだけ書かれている。研究者の小楠和正は武田勝頼との戦いに直面していたために家康は結城秀康を浜松城に引き取る機会も、対面する機会も持てなかったのではないかと推定している。
天正7年(1579年)、武田勝頼との内通疑惑から織田信長の命令により、兄・松平信康が切腹させられる(近年では信康が家康と対立したために切腹させられた、ともされる)。このため、次男である結城秀康は本来ならば徳川氏の次の後継者となるはずであった。
しかし、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和睦の条件として、結城秀康は秀吉のもとへ養子(徳川家や本願寺の認識、秀吉側の認識は人質)として送られ、家康の次の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされた。母親の身分は徳川秀忠の方が上であり、信康切腹前に生まれた秀忠が当初から後継者だったと考えられる。(Wikipediaより)

天神社
御祭神
菅原道真命
後醍醐天皇命
倉稲御魂神
岩長比賣神
松平秀康卿命
由緒
天喜4(1056)年天満天神の神夢により当郷の人民危機を逃れ、神霊を勧請し学問の神、産土の神として祀る。以来、永正9(1512)年 中村左衛門太夫正継 神主に任じ、天文20(1551)年社殿再建。
天正2(1574)年代官 中村家にて徳川家康公次男・越前中納言松平秀康公が誕生。当社を産土神として崇敬社領御寄付。明治7年浜松県令により近隣郷社・息神社境内へ迂座。明治13年官許を経て中村東海氏宅地の内、二畝歩を分割寄付したことにより往古の社地へ復社し現在に至る。

この中には秋葉灯籠が保存されています。

そして、こちらは息神社。

こちらも徳川家ゆかりの神社です。

「いきじんじゃ」ではなく、「おきじんじゃ」と読むそう。


慶応2年(705)祭神である二本の風神は、イザナギとイザナミの息から生まれたとされています。
神社名のあやかり、風邪や喘息など、息の病の治癒を祈願する人もいるそう。
息神社
祭神 志那都比古神
志那都比賣神
宇迦之御魂神
猿田毘古神
大宮比賣神
由緒
文武天皇慶雲2年(705年)の 勧請、延喜式神名帳所載式 内社仁寿2年(852年)従五位 下を受け官社に列せらる 中古山城国稲荷山の三神 を迎え米大明神と称す
徳川氏統一後諸政緒に就 くに至り慶安元年(1648年) 徳川家光公より朱印拾石 下附せられ安政七年(1860年) 郷社に列す
明治28年(1895年)5月 内大臣より許可を得息神社に復帰す

現在残されている棟札によると、
「文亀元年(1501)中村家14代の中村正實社殿再建。
天正14年(1586)徳川家康が本多重次(作左衛門)に命じて、社殿葺替えを行わせた。
家康が秀康の開運を祈願して息神社をその産土神に定めた。
徳川幕府から、朱印状により、神領10石を認められた。」
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ここもまた由緒と歴史とありそうなところ。
一度は行って観たいところ。
なかなか行けるところではありませんから。
あとにまた、調べてみてみたいと思います。
なにしろ今いい時代でなんでも、
調べられて分かり楽しめる時代ですから。
いつもいろいろと教えていただいてありがとうございます。🤩