大河ドラマに恋して

NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」「八重の桜」「平清盛」「江」の史跡巡りと歴旅紀行

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井伊谷三人衆 菅沼 忠久の供養塔

井伊谷三人衆(いいのやさんにんしゅう)は、永禄11年(1568年)末に徳川家康が遠州攻めを行った際に
今川氏真から徳川方へ離反した菅沼忠久近藤康用鈴木重時の3人のことをいいます。

浜名湖の沿岸の領主たちは、今川氏への忠誠心が比較的強かったため、家康は遠江侵攻の障害となることを危惧し、事前に、東三河の菅沼定盈(さだみつ)を使って懐柔工作に動きました。野田城を拠点とした定盈は一時今川家に仕え、その後、松平家と結びついたといいます。

永禄11年、定盈は、同族のよしみで菅沼忠久に接触。忠久が縁戚の鈴木重時を抱き込み、近藤康用まで取り込むことに成功。家康は起請文で味方についた井伊谷三人衆に所領を与える約束をしました。

菅沼 忠久(すがぬま ただひさ、生年不詳 − 天正10年(1582年))は、戦国時代の武将。菅沼元景の子。都田菅沼氏3代目。通称、次郎右衛門尉。正室は鈴木重時の長女。菅沼忠道は長男。
奥三河に版図を拡げる菅沼一族の中で唯一、遠江引佐郡都田に地盤を持っていた。当初は、菅沼氏との連携を大事にしていたようだが、より身近な井伊谷に居を構える井伊氏の被官になったと見られている。
永禄11年(1568年)、遠江への侵攻を画策する徳川家康に加担する同族の野田菅沼定盈から今川離反の誘いを受けると、承諾。忠久が、さらに鈴木重時や近藤康用も誘った。後にこの3人が井伊谷三人衆と呼ばれた。
同年12月から行われた家康による遠江攻め入りでは、越年後の堀江城攻撃に参戦した。
後年は、井伊直政に付けられたといわれる。ただ、天正10年(1582年)死去。(Wikipediaより)

龍潭寺の墓所に、菅沼忠久と長男・忠道の供養塔があります。

IMG_4686 井伊谷三人衆

徳川家康の遠州侵攻を援けた
井伊谷三人衆 この地に眠る
 
鈴木重時 永禄12年2月5日 堀江城合戦で戦死 享年42歳
菅沼忠久 天正10年没
近藤康用 天正16年3月2日井伊谷で没 享年73歳
 永禄11年(1568)12月15日、徳川家康は、井伊谷三人衆の先導で豊川、宇う利りを経て、三河遠州境の連座峠を越え、奥山へ入り井伊谷城を攻めます。当主不在の城はあっさり落ちます。家康は兵を整え、瀬戸、三方原を経由し、12月18日引間城(浜松城)を攻略、念願の遠州侵攻を果たし、いよいよ天下取りに向け、大きく一歩を踏み出しました。
 この時、家康を援けたのが、のちに井伊谷三人衆とよばれた奥三河の土豪鈴木重時(新城市山吉田城主)、菅沼忠久(都田在・田峯菅沼の分家)、近藤康用(新庄市宇利城主)です。
 三人は今川の配下で、この時期井伊氏の与力として仕えていましたが、今川氏真が井伊氏を滅亡させようとする仕打ちに腹を立てていました。そこへ家康が恩賞を厚くし、徳川方につくよう誘います。そこで三人衆は家康に内応し、家康の遠州侵攻を援けたのです。
 三人衆は龍潭寺で葬られ、この墓所の奥に祀られています。井伊氏が彦根に移ると、三人衆のうち近藤家が幕末までここ井伊領を治めていました。

IMG_4684 菅沼

IMG_4685 菅沼

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正明寺の中村家の墓所

気賀の正明寺は、本陣中村家の菩提寺として栄え、本陣危機の時の御退場寺に当てられていたと書かれています。

IMG_0916 正明寺

御退場寺とは、宿場の本陣で変事が起きた際の避難場所をいうそうです。

山門は、宗安寺の山門を移したそうです。

IMG_0903 正明寺

本堂
IMG_0904 正明寺

鐘楼
IMG_0905 正明寺

中村家は、1546(天文15)年に中村與太夫が吉村新町(後の気賀)の代官に任ぜられ、次いで16世紀末の天正期には吉村湊の舟役徴収や市日の升取役を命ぜられるなど、中世以来の在地土豪であったと考えられる。気賀は早くから三河と遠江を結ぶ陸上交通の要衝であり、また浜名湖舟運の基点として、浜名湖北岸地域の中心的な町場であった。近世に入ると気賀を貫く本坂通が東海道の脇街道として重要視されるようになり、気賀町に関所と宿場が置かれた。中村家は当初より気賀宿本陣をつとめるとともに、代々気賀町庄屋(名主という場合もある)および気賀上村庄屋を兼任した。また7代当主中村与四郎は、1760(宝暦10)年に気賀領主近藤用随に召し出されて気賀関所平番格となり、その後竹田家を継いで竹田弥次郎重賢と名乗って、1796(寛政8)年に退役するまで地方代官を14年、番頭を16年つとめている(『細江町史』資料編8)。なお中村家は、近世を通じて有力な地主でもあった。
(遠江国引佐郡気賀宿中村家文書より)

IMG_0917 正明寺

前回見逃した境内の裏山にある中村家の墓所です。

IMG_0910 中村家墓所

IMG_0912 正明寺

初代中村与太夫重盛の名が読み取れます。

IMG_0908 正明寺2

IMG_0909 正明寺

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久留米木(くるめき)の棚田

久留米木(くるめき)の棚田も前回の紀行で紹介されたので、再アップします。

IMG_4610 棚田

久留女木の棚田は、浜松市北区引佐町の東久留女木と西久留女木にまたがる観音山の南西斜面(標高250m付近)に広がる7.7haの棚田です。

IMG_4609 棚田

その中に約800枚の田んぼがあるといわれ、その美しい景観は「日本の棚田百選」や「静岡県景観賞」にも選定されています。

IMG_4612 棚田

棚田の起源は平安時代とも言われていますが、井伊直虎の祖父、曾祖父の時代に、井伊家の庇護を得て開墾が進んだと考えられており、現在も、井伊家の家臣の末裔が、棚田を耕し続けているそうです。

IMG_4613 棚田

IMG_4617 棚田

IMG_4618 棚田

また、久留女木を流れる都田川には、竜宮に通じるといわれる深い淵があり、その淵から子どもが現れて村人の農作業を手伝ったという例の「竜宮小僧の伝説」が語り継がれています。棚田の最上部には「竜宮小僧」と呼ばれる湧水があり、今も棚田を潤す水源となっているそうです。

IMG_4620 竜宮小僧

IMG_4615 竜宮小僧

案内図によると、山の上のようなので、今回は時間の都合でスキップしました。

IMG_4621 棚田

それでは再び棚田の光景をご覧ください。

IMG_4618 棚田

IMG_4619 棚田

IMG_4622 棚田

IMG_4623 棚田

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